世界的な常識

面子への拘りが生まれる事は、健康な活動を成されている人々に在っては自然な姿に思われます。しかし、過失を招き損失を与えているにもかかわらず、その事への真摯な態度を示す事が出来ない事については、大きな勘違いであり、傲慢な人間の顕著な例に思います。

どんな立ち位置にあっても、損失を与えればそれに対しての損害を賠償する事が、自然な振る舞いであり、面子へ拘りまともな感性を外して、独り善がりの態度でいる事の潔くない姿には、嫌悪感を超えて、失望感が生まれ、信頼性の棄損ばかりか、悪性を広げられる。

フラットな感受性を外す事からの負の影響は、失敗への率直な態度を見せられない歪んだ精神性に及び、ここに平和を阻害する人間の歪んだエゴの姿が生まれ、ひび割れや亀裂の深さに連なる。文化論が強調されるのは、こうした問題焦点を根源的な悪性と捉え、大きな負の事象を予防する為の人々の相応しい構えを示す事になり、利己的で一方的な強欲性に対して、理に叶った人間の初期的な心持を描き出し、健康な関係の持続的発展に繋げる為の営みとして描き出されます。

物理性への過度な依存からフラットな感受性を外して傲慢さが進行し、失敗や損害へ対する当たり前の償いが取られない事に、人道と乖離する醜態と映りだされ、そこに不快感を表すのが万人的な感性であり、この事へのズレを生まない事が、根源的な制約と備わり健全な秩序が堅持される。

いつの時代にあっても不動の価値になり、これを守れない事に対しては、看過する事無く、一切の妥協をする事無く、当たり前の態度を示す事が不可避とされる。一時の局所性で済まされる秩序ではなく、長い時をかけ創り上げられた価値については、万人的にその秩序を守るべきと課せられる事に在り、それが次代へ引き継がれ不変的な人間の意思と固まり、価値の持続性が果たされる。こうした事への規範感覚が緩み安易な犯罪が進み、例外を作りだす事によって価値の瓦解が起こり、なし崩しの空間秩序へ及ばせる事は一種の罪とも伺える事であり、根源的な不動性に対しては敏感な反応を創り上げる感受性が必然に思われます。

優先的な序列感の共通性として幅の生まれづらい事と捉えられ、経済的な取引のみでは済まされない価値の棄損という性格の事柄とを峻別できる感性に、人間の理性を重んじた姿が現れる。この強固な柱を少なからず作る所に主体性や独立性の概念が実感されて健康な心身を有する人間の姿と確認される。

堕落感とは、これを持たない感受性を指し、金で何でも済ませる発想や行為に対して当て嵌められる言葉であり、物的感性の慢性化した正しく頓珍漢な面子に拘る強欲性に在り、これと映る姿に対しては、鮮明にその実態を露わにさせ、悪性への対処や予防を講じる事が個々人に課せられた責務という認識を少なからず持つ所に、健康な感受性の所在が確認される。

こうした文脈が文化論の根源性の核心部分であり、このような認識を持たれた先人たちの意思を少なからず引き継ぐ事に、歴史や人類の一員という認識が形成される。事柄の重要性の認識の弱さや、逃げられるという甘い発想は一切通じる事無く代々に渡る汚点として人々の記憶の奥深くに刻まれる。根源価値への認識の弱さが強まる傾向には毅然とした態度で歯止めをかける事が絶対的な原理と置かれる。おそらくこれが世界的常識と思います。

文化の中枢観念

本書では、文化観念体系や詳述について取り上げます。それに先んじて文化の中枢部分の形成を以下に試みます。この面が良質な有機性サイクルを作る上での勘所に思います。体系の根幹という凝縮した性質を中枢に添えて、一つの有機体としての魂が注がれる。正負の人間像の認識から畏敬の念が生まれ自他との共存性へと意識が向かう所に他の動物と顕著に異なる理性をもつ人間の姿の実感が生まれます。

この共存性という在り方への適正感覚に調和や平和という均衡感覚の付け方が生まれ、そこに見る快適性が感受性の具体的な現れと成り、この点への異同感覚の共通性が高まる事に根源的感性の同一性が生まれ良好な関係への起点となる。年齢や性別、職業や所得、社会的地位という何がしかの意図的な観点をつける以前の所与的な状態でみる均衡感を維持できる感性が文化感覚と言い換えられ、この部分が少なからず堅持されて素の均衡性をもつ主体と知覚される。

つまり、諸条件という何がしかの意図を抱く以前の状態で見る感性が内蔵され、その状態での対象との同一感覚を持ち、自己と他者への同一的な公平感による振る舞いを取れる事がフラットな感性となり、この性質をどんな諸条件の変容が生まれても一定程度備えられる事に文化という根幹の性格が示される。経済性の概念を抱く以前の同質性概念という実態的感受性に、調和の初期状態が生まれ、そこで適用される規範が基礎的な不快行為を与えないという自他への制約になり、これを保てる所に理性や感受性の性質が現れる。

これが自制力という面になり、何者かから強制される事のない自身による均衡性への欲望となり、身を律する反応が成長過程からの躾などに起因し、どんな状態に至っても変わらない感覚として内蔵され、文化の程度という質の相違が実感される。

この良質性や程度差が、関係形成の初期的な面に配され、あまりにも違うという感覚に及ぶと本能的な拒否反応が生まれ、関係の深化には及ばない。つまり、自制力、自律心が核に成り、自発性や能動性の程度に現れ、独自性や主体性という姿に及び、独立的主体性という感覚が生まれる。

この人間の所与的側面に見る性能が、良質な調和を創る上での根源に成り、幼少期の時点から基礎反応として入力されて、社会人となってからも皮膚感覚に備えられる体質面での知覚に及ぶ。これを育てる事が自主内発性の義務や責任と課せられ、そこに快適感を抱く感性に、文化の内蔵される主体性の実感が現れる。言わば下限の制約となり根源理性を違和感なく自主的に求め、対象との交わりを行える為の準備工程と位置づけられる。少々固めの表現に成りますが、文化観念の中枢として相応しい捉え方に思います。

この直接的反応を示す事の繰り返しで、当たり前という感覚が作られ、間接的には各種の行儀作法を重んじられる型式が作られ、この文化感覚を鍛える場として取り上げられる。こうした面の強化策を少なからず導入し、基礎モラルの低下を予防する持続的な活動の必要性を感じられる人々も少なくないように思われます。知育に先んじてこの育成が共に備わり調和や平和の基盤が形成される。強要するより自然に望む感性が代々好き感受性として繋がれ、文化の良質性として認識される事かもしれません。開放的な欲望が生まれる一方で、引き締め的な欲望への志向性を持つ所に健康な感受性が作られ、耐久性を持つ持続的循環への骨格が形成され、適当な緊張と緩和の取り方や、主客への客観的な認識を生み、それに応じた反応が育ち、調和の上昇軌道が創り上げられる。

欲望と力と責任の均衡感覚の高まりに及んで、マクロ上のシステムへの適正化にも及ぶものと思います。現実的には、個々人に寄る取り組みというよりも全体での志向性になって達成される実感に思われます。

 

良質な根と基軸動態

1)良質な根と基軸動態
大志を抱く事は後ろ向きな発想や微細なズレに陥らない上でも大切な事に成り、基軸動態の健康な道筋に在る事がエネルギーの良質な生産を持続させそこに同質的な人格が集合する。目先の物的感覚に偏した物理力による求心性への回路に偏重した基軸動態は人間の根源的なアナログの感受性と離れ、機械性を対人上の悪用に陥り健康な心身と外れた利己的な願望の異質性にと深まり、心理的にどこかマイナス性の体験が尾を引き、人からのプラス感情を作る向きに回りづらい。このような力と技術、その用い方という面に人間の性質が現れ、良質な感受性を持つ人々の間でプラス型の相互交流が増進し、心理的な好作用という向きに力を用いる秩序が高まりを見せる。この率直な心の向きと技術の向上とそれを感じ取れる同質的な感受性という所に根源的な求心性が宿り基軸の太い長期性の共生と自立の関係が創り上げられる。
大きな志とはこの健康な感受性を根にした軌道を常態する活動を備えたアナログ的な情緒を根にする技術の向上という性格を指し利己的願望の偏重や力の悪用へと及ばない確立された倫理道徳を土台にした生産活動と言えるのでしょう。ここに在る人々が、社会の中心的なエネルギー源となり、良質性の連鎖を生む牽引者と知覚され、後ろ向きな発想を縮小させる基軸動態を構成する。自ずと普遍性や真理という万人的な共通価値への志向が生まれ、それを追求する活動には純粋な支持や共感が形成され、目先の利害を超えた大きな利益に対する本能となり細かな打算よりも自然な感受性に快適をもつ反応が形成される。
原理探求型の秩序形成とは以上のような所与的美性に準ずる創造志向を抱く規則性が現れる空間原理と実感され、物事の付録的な面よりも柱の良質性に着目した骨太の発想に比重をおく力強い肯定感による歩みになり、これらの根元にはアナログの人間像を基礎にする各種技術の上昇という循環系の有機体と捉えられる。
そこには、盗みや詐欺、力の悪用といった発想は皆無であり、この性質を含む主体性は中心的な配置に備わる事はなく良質性の阻害因子という認識で捉えられる。社会の基軸には健康な心身を有する主体性が中枢に配される事が中長期の安定と繁栄への必須条件でありこの面が最も優先される事柄に思います。ごく当たり前のシンプルな要所を外さない事が不動の感受性を表し、細かな一過性の事柄に振り回されない正眼を定期的に確認し活動を持続する所に大きな幸福感情が得られるものと思います。
人からの信頼を棄損させる行為は大きな代償を生み物理性で強引に強要させるような手法にはますます人を遠ざけ孤立性の感情が深まりそれを補完する為に物理性を追いかける負のスパイラルに陥られる。良質な根と基軸動態という利に叶った信用を外さない歩みに真なる平和が形成される。

方法に見る適正

 

人間には、自尊心が少なからず備わり、人に言われて従う事を嫌う性質を持つ。この根源的な面を踏まえ、意図する結果を達する事に、実務者としての能力が計られ、目的は同一でも物事の運び方に差が生まれ、それが結果に反映される。

なるべく、小手先の発想は用いるべきではなく、しかし、こうした側面への配慮を加え、実効性の在る方法をとる事に、実現への拘りが垣間見られ、感受性の差が達成への実現の差に現れ、多彩で精緻な認識力を生み、方法へと連なる。人間の心理面を良く良く捉えて、自尊心という面への配慮をとり、意図する結果を導出するように物事を動かす所に、実態的能力が計られる。

ここに現場感覚や人との体験から学ばれる実際的な差が生まれ、観念図面へ偏して生身の対話が弱く、適当な方法を描ききれずに、対立性を作り、実効力の上がらない手法に及ぶ事がしばしば生まれる。目立ちたいという欲望や大衆受けを意図した動機という推察が浮かぶか、上述のような物事の運びの至らなさという評価に至り実務能力の弱さを感じ取られる。

型どおりの論理や正論という抽象原理と、その適用に見る繊細な物事の運びとで実現能力が算定され後者の相違が多々見受けられ、心理面の体験的な積み重なりの脆弱な所からプライドばかりを先行した粗雑な表現による停滞を齎せる。

原論ばかりで、或いは頭脳ばかりで、単純な論理をそのまま実際場面で適用する姿に、感覚面や心理面への配慮の弱い姿が現れ、表層の権威や型式への拘りが、対象の真摯な対峙から実行力ある方法への思索が深まらずに、単純図式の対立性を創り上げられる。

抽象原理とその適用という所に多彩性が生まれ、方法とその真価を見極める嗅覚に、真相を正しく掴みあげる力が生まれ、頭脳と感覚の程よく回る規則性からこの面が発達する。なるべく、率直な反応を見せる事が正攻法な歩みであるものの、動機の健全性を根にしたパフォーマンスという事も現実社会の変革には許容される。

空のプライドへ偏して、自己の欲望を先行させ、結果が付いてこないといった事象が度々生まれる。他利を達する執着心が実効力への優先を生み、方法の有効性を作り実態的に物事を動かす。実務者能力は、ここを重視して算定され、観念上の評論にこの面への視野が及ばない事には真相を誤って伝える事に成り、実態は感覚や感受性という生身の察知力におかれ、それが観念表現の違いを見せる事からも感覚的な生産性の過程が強調されて対象の良質な認識や方法に到達する。

所与的な作法を飛び越えて利己的欲望に偏し、とんでもない不正を平気でやらかす感性に根深い異質性を感じ、成長過程や教育、躾への誤りや、物理依存の拝金性へと偏り、求められる責任と実際の能力との開きが生まれるような傾向に対して、正常なミクロマクロの人間像が描き出されて、適正な改善への進行が加速するかに思います。

2つの客観認識

一方的に不正な手段で監視を行う事は、どんな法律に抵触するのか定かではありませんが、健康な心身を有する人が取られる行為とは思えません。盗みという初歩的な事から、現代的には人権の侵害にも相当するのかもしれません。おそらく憲法という根源規定に関わる行為であり、どんな行政機関のどんな根拠で行うにしろ、根源規定から見て裁量の範囲という判断に及ぶ事は考えづらく、直接性か二次的犯行かは定かでありませんが、まともな感受性を超える行為という認識に至ります。この事に加担している共犯者も少数ではない事に推察され、そこにも人格上の欠陥を感じるものであり、相当根深い集団的慢性化した感性の異質な行為に見受けられます。

こうした事象を一つとっても箍の外れた堕落という指摘に及んでも致し方ない人々による責任感覚と力の大きさとの過不足を起こしている状態を感じます。共通的欲望の達成を意図する政治行政というインフラやその周辺の集団的な秩序形成に見る局所的利益の追求と伺え、健全な文化水準を牽引すべき立場の下落についてはその悪性の影響が甚大であり、緊張の緩んだ長期的な体質と思われる異質性には、改善というよりも交代や隔離、解体が相当の判断にも思えます。この応急対処的な反応と共に原因の多角的な考察を加え、システムの観点から見る再設計に思索が及び、ミクロの人間像から浮かぶ基準感性を想定して不快行為の個別的感度を確認しその感じ方から見る相応しい改革の程度が現れ、予防の程度が考案される。

どこのミクロ感覚を標準とするかに、政策や制度の実際が構築され、マクロの観念体系として積み上げられる。マクロ観念という抽象性のみには、実態性が弱く、ミクロの適用に見る感度が、人々の実際的な感受性を見る事に成り、原則と適用の実感の仕方にどんな論理を構成するか、つまり、直接間接の因果関係をどのように感じ取るかに感受性の質実が現れる。こうした事象をより根源の層から解析するのが、先に取り上げた思想の根源にみる受益と負担の感性に在り、頂いた物事に対する適当なお返しという感覚にみる健全性の作り方について、どこを標準として過不足や許容性を想定するかに根源の感受性が現れる。この規定の仕方にも、生産者という定常的な規則性に見る適性と、生活者としての適当な感性等といった限定性を持ち、各種諸条件の設定とそこでの因果関係の標準的方程式が少なからず意識的か無意識に備わり、そことの誤差がズレとして生まれる。諸条件を緻密に組んで明瞭化させるにも、程度があり理詰め的に正誤や善悪をつけきれないのが人間社会の複雑性にもなり大なり小なりの不満を抱えるのが多くの人の状態と現れる。

しかし、システム的な観点での欠陥感覚については看過せず、改革を断行するのが適当であり、個々の事象への対処というより、それら趨勢や集計から原因の特定と改善を適当な周期で更新させる事が事前的に組み込まれた人々の活動であり、総括と改善という作業から緊張と緩和の動態が出来、基礎的感受性の維持が取られる。生活スタイルの変化から、この大幅な乖離や急速な変化には、相応の制御をとり、自身の感情の生じ方に見られる変化を焦点にした人間側の把握と外界との対話という向きが生まれて、調和や平和という観念と触れ合うといった構造からバランス感覚という面が磨かれ、心と体に見る健康さの認識が生まれる。特定の所属集団における健康な感性と他集団に在る標準感覚との交わり等による気づきや新鮮さ、或いは異質な不快性など、プラスマイナスの感覚を抱く事により、自己の標準感性への変更の契機等も生まれ、適度な流動性が客観性を高める作用に及ぶ。変わりづらい部分と共に、フレキシブルな面とが併存して、日々新たな気力が持続する。これらの動態が活力の源泉とも捉えられる。

そして、本書の各種ビジョンはいわば標準感性への提案という性格にありミクロマクロの人間像を描き出し、この根源的な側面からの原理を持って、良好な建設的好循環を意図した制度の構築や創造活動に反映されると想定されます。自己の主たる生産技術とその外側からの評価を認識するのにマクロ観念の想定が欠かせずその全体観の中に自己の技術が配置されて全体と個別の重層的な客観認識が生まれる。更に、その認識に対して他者との認識の異同や発見、反省をもつという二つ目の客観認識が生まれる。

この構図が意識されて技術と社会性を含んだ持続的向上の軌道が生まれ対象と主体を内蔵する文化の道が浮かび上がります。堂々とした文化基盤により不快な事象が予防され、いずれの結果に至っても納得感の生まれる清々しい快適性が生まれます。偽善という行為や自己都合的な論理への偏り等という感性で塞ぎ込む事のない、真正面の対立への免疫を強める事が現代の課題に思います。精神的ひ弱さから生まれる物理依存症は心身の歪みであり、真理という探究を止めた人々の客観認識を欠いた姿に成り醜い正当性と現れる。

思想の根源-因果認識

思想の根源-因果認識

貢献した分のリターンを得るのが納得性の高いエネルギーの投入と見返りの仕組みに成り、この理屈が万人的な抽象原理と備えられ個別解釈に多様な見方が現れる。欲望と充足、その範囲や深さ、実感の程度や持続性といった変数が浮かび、明瞭にしやすいい部分と曖昧な部分との程度が生まれる。「因果関係の実感をどうとるか」がこれらの算定に及び、感覚性の事柄と情緒的な作用の抱き方の相違から個別性と共通性が生まれる。

 

その範囲や深さ

実感の程度

持続性

欲望

     

充足

     

ここに人間の根が置かれ、成長過程で作られる個別条件から生まれる感度が備わり、有難味の抱き方が作られ、その認識から反映した行為が生まれる。この均衡感覚に適正感が生まれ、不足に不満、均衡に普通、過剰に対して満足と見るか、不満と見るか。

この根源的な側面があらゆる事象の土台に備わり、各種創造や協働と自立の感覚に及び、同一的である事が快適感を作り違いが大きい所に様々な不協和やマイナス性の感情が生まれる。管理的な業務と現場的な業務とを経られて、いずれの工程における困難な面を知り適当な感度が育ち、感覚差の広がらない反応に及びいずれか一方に偏する事に対して正負の作用が生まれる。

この事から活動動態の完結的な標準図が示されて、それを基準に適正感覚を探る事に成り、更に活動動態から積み上げられた適正観念像が生まれ、その比較が執り行われる。こうした思索が感受性の客観性を作る取り組みに成り、個別性に対する適正基準と調和を作る共通的根拠が生まれる。

公平や公正、平等という観念はこの面がベースに成り、因果関係の取り方から抽象的理想を示す観念と感覚の解釈が生まれ、事象の認識を作りだす上での所与的な焦点となり、実感性の相違を探る視点が備わって、真相や真価という感覚が掴みだされる。同じ事象についても人によって感じ方の差が生まれその認識から論理や行為の相違を生み、感受性の異同の実感に及ぶ。詐欺や盗みという行為への認識も、この実感の取り方から始まり犯罪意識の相違を生む。

以上の事からも、文化という根源的な感受性の近さを作る事から細かな相違への許容性や、対立よりも相互補完的なエネルギーに回り停滞的な状態の予防に連なり好循環という軌道が強まりを見せる。どこに標準的な実感感性を見るかに、あらゆる基準の根が置かれ快適や不快の感覚が現れる。こうした事から根元を揃える試みの意義が備わり、ボトムアップの感性の厚みとトップダウンの創造という両面を睨んで個別状況に照らした変化が創り上げられる。

 

1)文化原論

1)文化原論

本格的、正統的な文化体系を示します。人々の背骨となる価値と思考や行為の確かな基軸論理を体系だてて構成する骨太の普遍則と纏めあげ、文化という言葉の内容を明瞭化させて、認識が強まり、迷いの少ない行為や考え方を確立させる事が、良好な産業経済、政治行政、教育へ連なる事と思います。

様々な研究者によって、多彩な切り口による文化観念へのイメージが創り上げられ、そこに見られる一貫的な抽象集約や、自身の活動の歩みから創り上げられた長期的な原理を一つの実感の高まる体系へと収斂させる試みに成ります。

主要なキーワードは、平和、正負の人間像、平和への方法、平和の実感といった層での論理を標準的な文脈に取り、これを哲学的な層から、真善美、主客、調和等の観念を用いて論拠の根源的な厚みを形成し、この2つの層の間には、ミクロの人間像や社会ビジョンを示し、3層程度の重層構造によって、文化観念の全体系を表す事に成ります。

このような横の流れと、縦の重層性を構造化させる事により、緻密的な概念形成が生まれ、感覚と頭脳側との交流を持たせた質実性の上がる知的体系の実感に及ぶものと考えます。これによって全体性や、根源性の備わる納得性の高い文化観念が表され、感覚にも良く届き、そして脳裏に強く残り、更に感性へと浸透し、価値や言行に統制を与え、実態的な作用の強い表現と成り得るものでしょう。

長期的な歴史の積み重ねと反省から、確かな未来を創り上げる規則性原理が纏められ、不動性を帯びた論理と固まり、人間の本質的性格として備えられ、そこから平和という幸福感情を示す実感への軌道が確立する。個別的価値や中期性の共通価値を生みだす長期の根源的価値の厚みが前二者の良質性に現れ、そこに自主内発的な主体性を含む人間の躍動的自由と寛容の世界が生み出される。生命が活き活きとし、且つ健康な基盤面を含み、共生的感情やエネルギーの好感や集中を叶える共同体の姿と現れ、安定と繁栄の両面を内包する持続的な活動への道が創り上げられ、そこに、幾世代にも渡る平和という実感が繋ぎ現れる文化論になります。いわば、人類の美感となり永遠に生き続ける精神的な動脈を描き表します。

消極策と積極策

これらが積極的な人間創造策というアプローチで在り、これに快適を感じるか、或いは、この中での最低下限の部分の限定性を強め、ここだけは互いに守りましょうというアプローチを用いるか等の協調策が生まれる事でしょう。

後者の部分が、「盗み、傷害、詐欺」という行為で代表され、詐欺的感性から盗みへ、そして傷害という物的衝突の過程が想像されます。言い換えると、積極アプローチは、詐欺体質の予防となり、下限的不快へと入り込まない施策に思えます。盗みや傷害の原因には多様な想定が浮かびます。つまり、こうした不快事象の認識が置かれて、そこを少なくとも守る事が、積極的なアプローチ云々の以前に置かれ、それなしに、様々な上昇策等という発想には本末転倒の姿に見られ、自己への制約を課さずに他者への過剰要求に陥る事のない調和の姿に適正感覚が生まれ、そして次第に無理のない積み重ねをとり、積極的な共通性を見出す歩みに自然な共生と自立の形成を見ます。

現代の特性と見えるのは、自己に課すという感覚が弱まり対象への過剰な要求を強める事への不快が生まれ、最低下限の制約を守らず御託を述べ要求する一方向的な感性への異常であり、ここが強調されて良質な調和策が生まれる事でしょう。

1)機能性における表現の質

「結論から言いますと、○○です」等という言い方がビジネスの対話でしばしば見受けられる。相手方に労を課さない工夫として取られる作法に成り、解り易く端的に物事や意思を伝達する共生感情を根にした行為の現れという解釈に及びます。

表現の多くは、述べるまでに行為の過程を経られ、そこから生まれる欲望を集約し、誰彼かに要望を見せる姿であり、それを受ける側がその要望について、対応するかどうかの判断を取るという映し方が実態と描かれ、この前提には、予めの主要な役割という共通認識が置かれてその枠が個別の対話に反映され組織や集団の活動が現れる。

関係の持続性から結論を端的に纏めて、そこのみで精度の高い対話を実現し、快適性の増進という感覚が生まれる。この構造を多くの人は実感され、良質な人との関係形成手法として行動原理に意識的か無意識に備えられる。

何がしかの知的体系を形成するにも、この論理が適用され、個別の積み重ねを抽象集約して重要ポイントを前面に取り上げ、そこののみで、大凡過程や枝葉の推察に及ぶ事が想定されて、最小限の表現で済む事であれば最も快適性が生まれ、必要に応じて詳細を述べ納得性の取れる所で対話を終えられ、判断に及んで次のステージの行為や対話が進行する。これが前進という概念の中身になり、過程と欲望の集約→納得性→判断→次なるステージ、といった過程で浮かび上がる。

本書の構成も、冒頭部分に過程からの集約を取るという形式を用いております。そこのみで同一的な理解に及ぶ場合も想定され、必要に応じて詳細を見るのが良好なコミュニケージョンの運びで在り、このような対話の構えに人間形成の基礎的な対峙の姿が映し上げられる。

込み入った知的体系を表現するにも、同種の作法を意識されるのが平等思想に基づく行為の現れと思います。文量の多い事が付加価値のポイントに成らず、如何に良質な集約を作り全体表現を少ない分量で示すかに、表現形式上の付加価値が生まれる。このような実質的な付加価値の正しい捉え方の認識が高まり、良質な能力の測定に繋がり適正な対価の産出に及ぶ事と思います。断片的な知の量ばかりが記載され、知と知の有機性が弱く、見る側に労を与えるようなものに価値はなく、積み重ねと集約の過程を繰り返す中で次第に集約の質が上昇して体系の壺を示す事に及んで、そこに付加価値が現れる。

このような姿が倫理道徳という観念の二次三次的な応用として生まれる要所になり、この意味からも根源には倫理道徳心が人々の性質の土台を形成しこの程度が各種創造行為の質に反映される。財力や権力、名声に縋った肥満体質から怠け癖が慢性化し、粗雑な表現や可笑しな発想や価値観で正当化される事や、それに留まらず安易な盗みに及ぶ事に対しては、道を誤った秩序が増進される事からも、本書の文化論の根源焦点が物事の本質や真価を見極める重要点に成り得ると思います。以上は、機能の向上性という面を焦点にした表現の質を指し示し、情緒的な志向等、様々な意図によって相応しい在り方が生まれる事でしょう。

今日的には、「おもてなし」等という言葉で、日本文化を表現されるようでありますが、上述のような発想や姿勢、態度を指し示す事に思われます。この質が物的依存から脆弱化し各種の不快事情と現れ、人間の自制力や観察力、感受性の衰退に及ぶ事には警鐘が鳴らされます。

 

1)倫理道徳の肝

犯罪者が何かを評価できる立場にはなく、この感覚が乏しい所に慢性的な病理が浮かびます。健康像を本書で再三取り上げてまいりました。

フラットな感性が前進的な発想や創造に及びここが根っことなって、市場と技術を結び需給構造が形成される。これへの真摯な対峙が基軸動態に成り、持続的な改善活動を周期に持つのが標準とされる。この表現が過不足のない倫理道徳を示し、ここから外れた感覚に健康な心身を欠いた認識が生まれる。

その自己認識を欠いて正当性を備えるかの主体性には、まともな関係が生まれず、何が原因で客観的な認識が取れないのかを研究する分野が現れ、健康像とその乖離、その原因を探り予防の方策が生み出される。

これが文化活動の端的な表現になり、根源的な感覚と観念を作りだす姿を捉えて人間側をそのまま映し出し、適正な自己評価をもった認識の修正を作り、相応しい姿勢や態度へと修復するのが健康な体質改善の筋道とされる。

そこで用いられる尺度が、多くの良心を持つ先人が永年の時をかけて作りだされた善悪の規定であり、活動動態上にこの尺度が取り入れられ、そことのズレを見て客観的な認識が生まれる。

恐らく、この想定に万人的な重層構造からみる客観認識の取り方が生まれ、そこから主体の独立性という概念が形成され、欲望と力と責任への過不足を計り、行為へと繋げる事が、畏敬の念という生命観に対する感受性の率直で具体的な反映の姿と捉えられる。

言葉で散々道徳を語る事も自由な行為に思われますが、上記のような実際上の客観認識による比較を持って適正な事実の認識が生まれ、この程度で留める事が過不足のない標準感性に思われます。あまり複雑化した抽象論理に陥っても実効性が生まれず、この文脈に同一的な型枠が生まれるように推測されます。

多くを無理に要求するような原理は、自己への制約を課さない一方向的な表現に及び、フラットな感覚から生み出される倫理道徳とは外れ、最低下限的な論理を示し実際の認識との整合に真価を付ける事が適正に思われます。急所を外して、個別的な要素から正当性を増すかの在り方にはどこか違和感が強く、普遍的な観点を尺度の中軸に添えて、そことの比較を重視するのが良質な人間の見方や作り方に思います。 

1-2 まやかしの和に嵌まる事のない健康な和の推進

政治行政が民間の活動成果を盗むような疑いが生まれ、それが事実ならまったくの本末転倒のインフラであり、共通の欲望を達する公正公平な基盤を欠くどころか、負の根源となり、力の暴走への歯止めが効かずに、法システムは権力の維持が目的におかれた運用に陥り、元々の制度構築の精神と乖離を起こした姿という認識が作られる。

この基盤の腐りには深刻な感度が当てられ、一定の水準に回復させる施策が不可欠になり、こうした症状は一日二日で作られる事にはなく、一定の時を経て形成される皮膚感覚という体質からの事に成り、抜本的な改革を早急に実施する事により被害の拡大を留める事が望まれる。

教育制度、行政改革、政治改革、といった公的機関の直接的な面と、それに隣接する報道、マスコミ、財界人という周辺分野の在り方を含んだマクロ的な観点からの対処と予防策という事と、個々人の文化意識の上昇というミクロマクロからの基盤の改良が合わさって、正常な感性への浄化が叶えられる。この焦点への関心を強く持たれる人々も少なくないかに推察されます。ここが健全水準にあって、その上での共存共栄という前進性のビジョンへと熱が促進し各種の創造策が描き出される。

犯罪者には犯罪者としての対応が必然でありこのメリハリの弱い行為を取る事無く、膿を出し切る事が避けて通れない改善への施策であり、或いは、同程度の文化水準の人々とマイナスには関わらず、マイナス性から経済的な原資を得られる人々とも基本的に関わる事はなく、プラス性のエネルギーを投じるかの選択肢が生まれる。ここが、関係形成の肝に成り倫理道徳心という面が人間作りの中枢に備えられる。

厳密には、各種領域内にも文化水準の個人差が生まれる事と予測されますが、同一の看板を背負いながら、悪性を見過ごす事は社会人としての倫理観の欠如を指し、同種の扱いを取るのが適正であり、より厳密には、それに対しての改善施策を斯様に取られているかを、個々人が発信できるような透明感を備える環境整備が要り、ここが現代的な個人と集団の矛盾を解消する上での要点と浮かびます。

集団の規定に個人の発言の制約が置かれ、その内容が供給寄りに偏して、一般的な倫理道徳を欠いた面へ塞ぎ込むかのようでは、規定の在り方に健全性が備わらず、内部の膿がそのまま残り改善意欲を萎ませていつの間にか同化される。これに陥らない制度を設ける事が喫緊の課題になり、一定のインフラ水準へと修復してプラス性の阻害への対処と予防が進行する。和をもって尊しという根源感性はこのインフラの下落を改善するエネルギーに回るのが適当であり、まやかしの和に染まる事のない健康な感受性を備える人々との協働性が志向されます。