1)倫理道徳の肝

犯罪者が何かを評価できる立場にはなく、この感覚が乏しい所に慢性的な病理が浮かびます。健康像を本書で再三取り上げてまいりました。

フラットな感性が前進的な発想や創造に及びここが根っことなって、市場と技術を結び需給構造が形成される。これへの真摯な対峙が基軸動態に成り、持続的な改善活動を周期に持つのが標準とされる。この表現が過不足のない倫理道徳を示し、ここから外れた感覚に健康な心身を欠いた認識が生まれる。

その自己認識を欠いて正当性を備えるかの主体性には、まともな関係が生まれず、何が原因で客観的な認識が取れないのかを研究する分野が現れ、健康像とその乖離、その原因を探り予防の方策が生み出される。

これが文化活動の端的な表現になり、根源的な感覚と観念を作りだす姿を捉えて人間側をそのまま映し出し、適正な自己評価をもった認識の修正を作り、相応しい姿勢や態度へと修復するのが健康な体質改善の筋道とされる。

そこで用いられる尺度が、多くの良心を持つ先人が永年の時をかけて作りだされた善悪の規定であり、活動動態上にこの尺度が取り入れられ、そことのズレを見て客観的な認識が生まれる。

恐らく、この想定に万人的な重層構造からみる客観認識の取り方が生まれ、そこから主体の独立性という概念が形成され、欲望と力と責任への過不足を計り、行為へと繋げる事が、畏敬の念という生命観に対する感受性の率直で具体的な反映の姿と捉えられる。

言葉で散々道徳を語る事も自由な行為に思われますが、上記のような実際上の客観認識による比較を持って適正な事実の認識が生まれ、この程度で留める事が過不足のない標準感性に思われます。あまり複雑化した抽象論理に陥っても実効性が生まれず、この文脈に同一的な型枠が生まれるように推測されます。

多くを無理に要求するような原理は、自己への制約を課さない一方向的な表現に及び、フラットな感覚から生み出される倫理道徳とは外れ、最低下限的な論理を示し実際の認識との整合に真価を付ける事が適正に思われます。急所を外して、個別的な要素から正当性を増すかの在り方にはどこか違和感が強く、普遍的な観点を尺度の中軸に添えて、そことの比較を重視するのが良質な人間の見方や作り方に思います。 

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