現況の人間像

真摯な姿勢から過失を認め、それに対してここぞとばかり攻撃する姿勢には、程度によって不快感が現れ、全滅させるような欲望に及ぶ事には異常な感情の心象を受けるというのが傍から見る感じ方に成り、多くの事は、良い面と悪い面との併存した状態で掴む事が共生共存本能を持つ人々の感覚に思われます。

逆に、過失を認めないで惚けたまま、逃げ切れるという発想からは修復する事はなく、他人を誤魔化すばかりか自分も誤魔化し、動揺を抱えたままそのつけがどこかに現れる。或いは、誤魔化しを重ねそれが体質に成り下限的な善悪にも鈍感になり、大きなしっぺ返しを受けるのが歴史からの教訓であり、この自然作用を滞らせずに回る事が正常であって、過剰な美感や体裁に極度に拘る感性が失敗を認められずに蓋をする。

プラス性の評価構造を持たない減点主義を基軸にする文化に起こりがちな反応に見受けられ、ここから後ろ向きの発想が強まり、上げ足とりやダメ出し、詐欺や盗みといった二重人格が強まり、言論と腹の中が異なり陰湿な人間性が濃厚化する。

この体質を中軸に添えると、それが伝播し、物的力への過剰依存と現れ、単純物理性の秩序が支配的に成り、良質な前に在る発想や挑戦意欲が萎んで、閉鎖性の空間が生まれる。物事の重要性の取り方が歪み、端っこの事へ妙な拘りを生む等の、基軸の細い価値体系が創り上げられ、均質性への快適と許容性の狭い感覚が進行する。

対人的な窮屈さを強め、健康な発想が遠のき、外界に映るあらゆるものと距離を設け、対立的な構造が拡大する。利己的偏狭性の過剰な姿が、所々の細かな仕草や発言から察するに及び、性質の明瞭な異同が掴みだされる。こうした閉鎖性が経済産業の委縮や政治行政の形骸化に及び、過失を謙虚に認められない空のメンツに拘った異常な感性と及び、陰湿性が強まり空間を暗くさせる。

これらに改心して、過失を認められた事には少なからず前進性の印象が作られ、責めるばかりではなく健康な一歩として捉え、その良質性を伸ばす向きのエネルギーを投じる事が相互の発展軌道を太める。失敗や過失に対して率直な謝罪を見せる事については、前向きの部分を残した調和の形成が適当な姿に成り、お互い様の感覚を備えた共存性が持続的な好循環への軌道を作る。

いつまでも過失を認められない人間には良質なエネルギーは集まらず、時が進む毎に、その事柄への意識が深まり、心身共に病的な状態が進行して、二次三次の悪性を作られる。

この負のスパイラルに陥らない清々しい潔さが、健康な文化のインフラとなり、過剰な美感に行き過ぎない善悪や正負という性質を持つ人間を直視する文化に健全な持続的発想が生まれる。

この論理を導出する根源焦点が自然の存在に成り、自然の生命を奪い人間の生命を存続する事へ対して少なからず罪悪感を抱ける感性が要り、現代の人工化されて物事が届く流通形態から野性的生身の感覚が弱まり、生き物を殺している事への実感が離れて、妙な美感が作られる事への警鐘が鳴らされる。人間を過剰に美化した姿は醜悪そのものに成り、不健全な感性が進んで、失敗や過失への真摯な態度を避け、逃げ回る弱さが大きな惨事を招かれる。文化という根源からのフラットな感性が強調されて正常な感覚へと定期的に修復されて、大きな道を外さない歩みが持続する事に思われます。

思想の形成とは

領域の世界観が定まらないうちは、一人前という扱いは成されず、自己が身を置く領域について確たる持論を述べられて、定見を備えた主体性という認識が生まれる。個別事象を重ね定期的な集約の機会を持ち、次第に固定的な不動の見識が定まり、他者の小手先の批評や意見に振り回されない根本と基軸の備わった領域の概念が創り上げられる。そこから個別的な事象の配置が作られ、自己の主体性をもつ人格の実感が形成される。

経済とは、政治とは、文化とは、これらの関係性は?という社会観や、自然と社会、人間という根源観念についての見識が固まり、その枠組みという価値観が生まれて、堂々と人に述べられて一人前の主体性が確認される。個々の小さな体験の積み重ねと集約の反復という感覚体験を通した観念形成によって、質実の体内に取り込まれた考えが備わり、自然反応的に個別の見解が現れる。それが、主義や思想という纏まりある行動動原理に及び、右往左往の少ない柱を備えた人間像と映し出される。

理念やビジョンと掲げる事と、実際上の姿に整合が高まり、この状態に信用や信頼という言葉が当てられる。人との異同が少なからず生まれ、ここは変えられない部分、幅が生まれる部分、柔軟に解釈する部分、といった程度差を持ち、人との相違に寛容なスタンスが生まれると同時に、芯となる部分を表す事に成る。

日本人という国籍上の形式と、過去の歴史から不動的な価値として連綿と続く部分が生まれ、その解釈や感度、割合、深さ等々の個人差が生まれるものの、一定の型枠について多くの人が良いや美と感じられる事柄は自然と身につけ実際上の感性と生き、違和感の少ない根源理性になり、表層の創造事物にこの要素が少なからず含まれて、空間の快適性を抱かれる事に思われます。

下限の善悪は特定空間に関わらず汎用的な事柄に成り、そして、前進的な創造という積極的な規定が創り出される。この間に、空間独自の共通的な感受性が配されるといった構成をとるのが、外側へ向けた発想や異同についての尊重ある構えにも思われます。

冒頭の領域についての持論とは、積極的な創造過程の中で創り上げられる事柄に成り、個々人の通られた道の相違から、多彩な感性が示される事に思います。自己を制御する体系が作られて、下限的な事がクリアーされて、まともな他者との建設的な意見交換が生まれ、その状態にないうちはそれに適する配置が生まれるのでしょう。

ただ金があるという物的依存の感性には、本来的な信頼が寄せられず、一貫性の在る自制を持つ主体性に、真の対話が創り出される。

8)文化概念の目的から目標への展開

主体性や独立概念の中身として人間観念の中枢に備わる根源性について取り上げました。物理性からの制約と対峙し根源理性に沿った中局の構造を志向し健康な感受性の維持と上昇発想を生む全体観と描き出されます。それに資する各種の多段的な指標が設けられ理念と実感の持続的循環により高次の世界を切り拓く道筋が現れます。在るべき主体性という理想と現実の人間の姿と理想への方法という3つの観点を備え活動の骨格を形成し根源の感受性を堅持して適正な調和の持続的な軌道が確立する。欲望と力と責任の均衡が標準の尺度になり他利を叶えて自利に回る向きにある事が責任不足へ及ばない発想を持続させ、真理の探究という長期や大局を視野に取り込んだ利益の高次な創造が意図されて調和を求める根源価値の実感が継続する。

社会の要路といった影響力の大きな配置を求めるのであれば尚更このような感覚が期待され、力の質量に応じた志が必須と課せられて平和への軌道が生み出される。盗みや詐欺に鈍感な感性は志どころか平準以下であり間違っても適格性があるとは言えないのでしょう。

この国の現状はご覧の通り、虫けらと恥知らずの政治家や行政、マスコミが多すぎるかに思います。これらに操られる周辺の人格の破綻した経済人という集団が無法地帯を作りだす。根源的な感受性の崩れた人間が中枢に備わるような状態は一刻も早く直すべきでしょう。盗みや詐欺が体質や秩序と固まり、文化水準の劣悪な姿からは良質な経済産業に及ばず、根元の腐りを取り除く事からの施策が必要であり現代の必須の書に思います。なぜ、安易に盗むのか? なぜ、金を払わないのか?馬鹿に力を持たせない文化が持続的成長に不可欠であり、ミクロの感性の可笑しな者は徹底して広く周知させ、事実上の自然淘汰を進める秩序の醸成がまずもって必要であり、他国の事を非難出来るような内実に無く、こんな国になぜなったのか、根源的な総括と抜本的な変化を要する時期に見受けられます。

世襲の悪しき面や、物理依存過多の感性が根元の腐りを増進させ、公明正大な健全性を阻害し、特異な感性を蔓延させる因果に映ります。この流れに同化する主体性の崩壊の連鎖が進み根源からの思索の弱い短期性の経済を優先させる面面とが、無法地帯を促進させお飾りの法治国家を作り観念と感覚の乖離した頭脳と感覚のバラバラな動きに至り心身の歪んだ姿と現れる。

この状態を映し上げるのに、纏まった根源からの思想体系が要り、確信的な納得感に及ぶ長期的な筋道を示す創造が生まれる。多くの良識を持つ人々に内在する欲望を観念と表し、認識を強める事へと連なるものと思います。健康な感性から正負の特定を鮮明に捉え、腐った人格を自覚させ潜在的顕在的な良質化への自然な本能からの改善への軌道を形成し、人々の健康な力を広げる一端に当該著作が有用に働きましたらこの上ない幸いです。

 

文化教育の重要点

文化教育の重要点

感覚と観念という身体と頭脳の作用は、他者との関係を想定すると感情の作用が入り、良質への志向と増悪への志向という心理作用から、認識や行為に反映される。このように映し出されるのが、人間世界の事実認識になり、生理的な感覚と心理的な作用とから事象が創り上げられる。自然的要素と人間的要素を包含した事実の規定であり、根源的なありのままに近い対象の姿が映し出される。

基本的に、個別的な心理作用については、第三者が介入する事には、不快性の感覚が生まれ、関わりの程度という利害関係や新密度によって、適正が判断される。この因果関係の実感の取り方に個別性が生まれ、一様に解釈する困難性が生まれる。このような認識の上で、良好な自然や人間との調和を意図する方式が編み出される。

両面を含んで事実という規定を取るか、生理上と心理上を区分して、事実と価値という規定を設けるか、その場合、生理と心理の境界には、どんな基準に相応しさが生まれるか、事象の因果関係の範囲と深さをどこまでとして、事実と特定するか、これらの一般則と個別解釈の程度をどのように設けるか、等々の観点が生まれる。

これが、「知ると作ると対話する」という基本動作における勘所であり、何を優先して、どのような規定を取るべきかという所に人間の根源的な価値観という普遍的な原理が現れる。生理的、物理的、心理的欲望に対しての結果現れる基本動作と言い換えられ、その反復的規則性に普遍性という原理が映し取られるという言い方にも、3つの領域の相関として実感が生まれる事かもしれません。この統合的な観点を持ち、その上に個別的領域の規定が設けられるか、或いは、個別的領域の分析と規定を持って、3つの相関の在るべき姿を組み上げるか等の思索を、文化活動を重ねる中で答えを導出するという到達点が浮かびます。

調和という観念と適正な調和という作り込みの観念という一般則と具体的な取り組みとの相違を理解し、後者の中に実感性の強い感受性が現れ人間を知り人間を作る事に及ぶ。机上的な観測と当事者性を持つ立場との相違が理解され、実社会に於いては後者の側で答えを見つける事が求められる。その最良性を導出する為の思索が当該領域の目標となり教育や活動の重点に置かれる。この事から目を背け特権的な意識や妙な美感を持ち、犯罪感覚が弱まる行為から平和が阻害され平等観念と逸れた意識を増進させうすら馬鹿が出現する。正負の側面を持つ人間という認識を掴み、当事者としての誠実な最良性を作る所に正しい対象との対峙が生まれ、歪んだ発想や逃げの姿に陥らない主体性を構築する事に自他への責任感覚を持つ調和が果たされる。

 

 

生産者の初心の持続性

私有という状態概念は人間世界における価値観であり、他人に支配される事無く自己の意思で所有する事物を管理使用できると規定される。私有している状態を明確に示す為に名称を付す事や、私有事物を実際に管理されている実情を表す等によって対抗力が生まれる。更に、客観的中立な立場を創りこれらの規定を整備し、主観的利害を含めずに、個別の私有状態を計りそれを認証する作用が設けられ、私有状態の公的な認知と及び、事物の支配利用権が強化される。資産等の保有や利用、売却を自己の意思のみで行え、安心感と自由の獲得が実現する。これが安定と自由、安全と成長や繁栄、制約と自由、静態と動態等の哲学的抽象性の高い概念における二項対置と両面の統合された個別具体的実感に及ぶ代表的な焦点に成り、私有や所有という私的権利の安定と自由な活用という状態が示される。

人のモノを奪う発想や盗む行為は、本来的、健全な生産や所有の経路の弱い生産者に現れ、自身のエネルギーの投下とそれに相応しい対価を適正に計りだす健全な感覚から離れ、安直な方法や奪う発想から、人のモノや時間やエネルギーを取り、その付加価値の転用や転売という中貫で糧を得る姿に成り、流通経路の多様な形成力やニーズと供給のマッチング作用、更に独自の企画提案力等が単なる中間搾取という認識から価値が付加され、一定の存在意義が認められる活動という認識が形成される。

中抜きや仲介という立場に、この付加価値生産性への認識が弱いと、ただの盗みと特定され、私有事物を奪う悪性と捉えられる。この状態にある流通者が意外に少なくないようにも思われます。悪意の強い騙しや人への良好な作用の提供力を持続的に磨き探求するエネルギーが弱いと、付加価値の実感を他者から認められず、無用な生産者となり、そればかりか迷惑な存在や被害を齎す社会的な不用者という認識が強まり、上述のような第三者を活用した私有の強化策等が生み出される。

この第三者という中立的な作用に於いても、私的欲望を含ませた利用の発想を強める向きに流れる第三者も散見され、自己の確立された原理とその客観適用力の弱い疑念が浮かび、ここにも本来的意義を損なう私欲性の高まりが現れ、準公共性や公共性を性格に持つべき立場の自己都合のよい権威の乱用や暴走と及ぶ事には、その存在意義を失い付加価値の歪んだ生産者と映し出される。

これらの根源には、原理創造力や付加価値形成力という技術の向上と社会的ニーズの収集と実現という基軸動態が備わり、この経路に対して、どんな付加価値を創り上げられるかに多くのエネルギーが投じられる。公共概念を規定するに際しては、「どんな付加価値か、どのような対象が想定されるのか、これらの活動の原資はどこにあるのか」等の観点を明瞭に示し、客観性や透明性に連なる運用が求められ、その公開性の程度の適正さを原資の提供者から常に監視を受け緊張が持続し、エネルギーの健康な投じ方へと反映される。

騙しや盗みという不快性の行為という実感に及ぶ事のない公平公正な発想と行為を作り、堂々と自己の意義を謳える事があって健康な心身の所在が実感される。組織の規模や知名度へ依存し、この初心となるべき生産者としての行為原則が弱まる事にはその状態を広く伝達して、良質な生産者へのエネルギーを集中させる事が、直接間接の健康な創造と秩序が向上させ、原理創造型の付加価値の増産される空間秩序へ連なり、その恩恵が循環され良い気道が太まり後ろ向きな阻害性が減少して建設的な発想へと意識が集中される。無形財生産という曖昧性には、こうした面が強調されて適正な創造活動の水準が守られる。

 

10)文化政策の要

他でもやってるから自分も良いのだ。という正当性の論理を取られる所に、自己不在の拝金主義や創造力の低下、人格の破綻という性質が現れる。特に犯罪行為という性格の事柄を、他でもやってるからという理由で自己肯定をする節に見受けられるモラルハザードには、間違っても大きな力を与えられず、少なくとも下限の制御感覚を有する事に、人間との対話や交流が叶い、関係形成の必須要件と浮かび上がる。

 この手の性格が少なくないのが実情のようであり、社会システム上の要路に配される人々に根源的な欠陥感覚が在るようでは、まともな秩序が作られるはずもなく、この面を直す事なしにはどんな創造行為にも正当性は与えられない。主体性や独立性という人間の根幹的性格の不在は深刻な人格破綻でありこの認識を強めるのが文化論という価値観から表現される。この焦点からの改革がマイナスをプラスに戻す正常化策と位置づけられ、個々人の付き合いから、教育の在り方や、市場の形成、制度への反映、システムの構築といった各所の健全性を図る観点と取り上げられ、現況の客観認識と改良への施策を進める事が優先度の高い根本の良質化に及ぶ。

 感受性の衰退→生産の規則性、自己尺度の弱さ、技術向上への熱を投じない、盗みに走る、軋轢への免疫低下、精神的なひ弱さ、横並び発想、村社会、根っこからの原理形成を高め、相対比較という容易な判断を減少される事。

マスコミ、行政に顕著な性格であり、需給構造の過保護という指摘に至っても致し方ないように思われます。一部の人間の性質である事と思いたいものでありますが、実態を調査して組織的な感覚に及ぶかの客観評価を第三者の立場から審査し、適当な人員配置や構造的な原因の改善という一連のプロジェクトを進行させて、広く社会へと報じる事が主要な健全化策と浮かび上がる。

この持続的な監視と測定の作用が果たす役割が、基盤の下落を防ぐ装置と備わり主体性が確保され、感受性の正常さを強要させる事も、程度に寄っては要るのでしょう。 

配置に求められる能力やシステム自体の適正な大きさへの変更という事から要件規定を導出し、実施状況の継続的な検証の仕組みを設けて、水準の維持と上昇へと連ねる事が文化向上策となり、対処という応急策をとると共に、長期スパンのシステム化が要るように思います。

レベルとしては、犯罪への着手の程度→原理創造力→主体性の確立度、という観点から現況が計られ人格と能力の形成プログラムを確立させる事。レベルに相応しい配置、異動。

こうした施策が良質な調和の形成や、平和を創り上げる具体的な取り組みに成り抽象原理の具現的変換による実現への軌道と現れる。

平和学の根幹

平和学という漠然とした領域概念の根幹部分に相当する知的体系となるのが、本書における健康概念であり、事実や価値、活動、という人々の基幹動態基盤の確たる認識を形成する事が適正な人間関係の基礎となり、それが調和や平和の礎を創り上げる。

この基盤となる知的体系を感覚的な感性に浸透する事が領域の目標に掲げられ、ただ知識を一時的に頭脳に入力し、机上でのアウトプットで習得をするような評価構造にはなく、活動工程を積み上げる中で次第に発想や思考や行為という全般に浸透し、体質となる所までを想定した教育概念の構成に実際的な効果測定が置かれて、心身の健康を形成するという認識の取り方に当該領域の本質が備わり、一時の学生としての学問というよりも生涯学習のスタンスを持って、基礎概念の入力と出力を身につける捉え方に適正な平和学の真義が齎される。

現代の問題は、頭脳の入力と出力に偏した作業で、測定を取られる安直な判断が生まれ、行為の習慣と浸透している状態を見て検証結果を捉える事が実態的な学問の有効性を実感するに及び、この視点の弱さから言行の整合ある活動が離れそこに倫理道徳の脆弱な実感が形成される。事実、価値、活動、健康という概念の確たる不動則を備える事がこの工程の初期におかれ、正しい認識の頭脳的な把握に及ぶには、感覚的工程体験とが合わさり循環される中で次第に質実の実感に及び、発想の生まれ方にも浸透する事によって実態の検証を持つという枠組みに健全な状態が映し出される。

このような方針や実感規定を念頭にした価値形成の刷新に良質な人間形成の道が生まれ、心技体の整合を作ることに重きを持たせる概念の強化が必要に思います。この常識感覚を強める事が本書の意図する肝要な部分に在り、日本文化原論の全体構成における根本に相当する哲学領域の考え方として説明されます。

つまり、各種のビジョンの表現という部分と、それらを達する上での基礎構造となる認識論や活動論という二層構造で大別され、後者の概念成しに、ビジョンのみという事はなく、言行の整合を前提にした活動プログラムとして纏められます。本書の各所に渡り、哲学の性質が浮かび、実感の概念に重きを置いた活動的な性格の観念である事が伝わる事に思われます。

実感の規定と実際の実感を取る厳密性に事実の概念が生まれ、この感度の強化によって活動性が強まり、同じ観念にあっても感じ方や捉え方の深さや質の相違が生まれる認識を持ち、規定と実感の拘りと行為に比重を持つ事が、頭脳寄りの認識と感覚での実感を繋げるポイントに成り、頭脳偏重からの弊害が予防され、そこに倫理道徳という感受性の実質的な実感が創り上げられ心身の健康体が実感される。

頭脳偏重に度々見られる表現が、「事実は○○です」という言い方を安直に用いる姿であり、正しくは「私の実感は○○です」「私は○○と考えます」となり、他者との異同から共通的実感部分を確認する事により、個別的事実と共通的事実が創り上げられる。無限性の概念や平等思想の弱まりは一方的な断定と強要性を強め、それが傲慢な欲望の現れに及び、各種の不快事象を出現させ調和の作り方を間違える。

こうした平和を阻害する因果を強調する事が文化論の視座に成り、二次情報を実感に多用する安直性への傾向等から、粗雑な事実の形成や対人上の亀裂を作り、その罅に対する早期の修復を避けて歪みが深まり、物理性で強要する哀れな発想に陥る事のない健康な心身の維持に目的が備わります。

一般化と個別性の取り扱いの丁寧な進行とも言い換えられ、一般則とその解釈の多様性という面への認識が弱く、利己的都合のよい解釈をそのまま適用する事からの弊害を肝に据えた真摯な対話から良質な調和への軌道が形成される。うすら馬鹿とは、この認識の弱さに適用される事に思います。 

哲学の観点

各種の法則の発見や創造における長期周期の規則性に人々の変わりづらい価値が現れる。観念的知覚での表現に変換して、感覚的認識から観念的な認識が強まり、規則性の実感に及ぶ。身体感覚的な実感と間に記号を設けて頭脳的な実感におよぶ改定の中で、各種の認識の多彩性が生まれ、この共通と個別の感覚から物事の認識の異同が作られる。

適正な実感感覚という所が基準に成り、どこに標準感覚が生まれるかに、長期性の規則性から作られる各人の感度が生まれ、感覚的な行為と頭脳寄りの行為という習慣の差が感度の違いを生み、そこに不協和感が生じる。長期的な法則性に万人的な共通価値となる抽象観念が形成され、それについての相違は大きな開きは生まれないものの、その実感感覚に活動の違いから差が生まれる。

この点が強調されて万人的な理解に連なり、その実態認識が揃い、不協和音の原因が特定され、快適や不快の生まれる仕組みが解明されて、それを正す方策が作られる。このような所にまで踏み込んだ事象の認識を取る事がベースにおかれ、その認識の上で各種の表現を創り上げる事が適正な創造活動に及ぶ。

「出来た」という認識や、「事実」という観念の中身への考察が弱いと、対話の噛み合った円滑な運びに至らず、平行線のまま相手方に原因を求められ、自己正当性を強めた態度が形成される。このような面が、調和や平和という良好な関係性作りに於いての根源的な焦点に成り、感覚と観念、実感規定、標準の実感、日頃の活動特性、感覚寄りの習慣と頭脳寄りの習慣等々の事へと思索を及ばせて、同一的な根源基盤が形成されて、対話の基礎が揃い、個別性と共通性という価値観の尊重を生む事に、健康な人間関係が生み出される。

完結的循環性をもつ活動観念の提示は、多くの人々の生産活動の長期的な標準形を示し、感覚と頭脳と感情を程よく用いた創造行為の原型となり、この規則性が標準となって健康な感受性を生む感度とされる。今日の分業の進展から頭脳寄りと感覚寄りとの離れや固定性が強まり、感受性の違いが広がる事には、良質な社会の感度が生まれず、感覚と頭脳と感情の三作用を人間の標準と描きそこに全体観を定めた個々人の自己認識を形成して、各種の特性と共に全体協働性を向上させる取り組みが生まれる。

責任感覚の相違という実感の差等や、犯罪認識の実感の差等が、こうした面から解明され、認識差が生まれないような施策を投じる事が、安定的な基盤を強化する事に及び、土台の良質性の上での自由領域が形成される。因果関係の横の広がりや、上記のような縦の深さの相違が生まれる仕組みの理解を深め、同一的な認識に到達させる事が、各人の理解や社会の仕組みづくりの初期的な所になり、ここの共通実感性を確立させる事が、本書の文化論の中での認識論等の哲学の思索領域に配されます。根源的な哲学のしっかりした空間秩序に健康な持続的成長のベクトルが創り上げられる。各種ビジョンという抽象表現と実施工程の円滑な創造を成す上で、根源的な哲学の知見が欠かせない領域と成り、その要点として以上の説明が取り上げられます。

根源的な価値算定式

小銭をけちって大金を失う事が経営者にとって最も経済センスの悪い判断であり経営を単純尺度で測り適正な算定の劣った感性という結末に及び人々の幸福感情に反映される。投資判断にも通じ行き着く所は価値の算定であり、無限性の中に於いて、如何に価値の適正算定を出来るか、そして価値を創り上げられるかに人間の価値が生まれる。衣食住といった必要条件とその水準が一定程度満たされ、概ね安定的な調達が取られ、次に求める事は、仕事上のやりがいであり、如何に多くの幸福感情を創り上げられるか、或いは不幸な感情を減少できるかに創造上の価値がつけられる。つまり、幸福や不幸の静態状態と動態状態の規定をどのように法則と規定されるかの創造力とその納得性を描き出せるかに最上の価値が生まれる。

これに照らして、それに資する事柄に価値の序列が生まれ、数値を組み上げるのが根源的な側面からの算定式になる。衣食住という下限の欲望と、この積極的な高次の世界との割合感覚から金銭へ変換するのが絶対上の原理構成になり、この見積もりを作り広く訴求して納得性や信憑性を作りだす力に価値の源泉が生まれる。つまり魅力ある図式の創造力と達成へ向けた信憑性を表現できる能力に動力源がある。

この構図が根源性の創造図面に成り、原型が作られ他者からの模型として参考に取り入れられ、相対的な原理になり二次三次の付加価値が生まれる。この論理に沿って現実上の資源を適用して具体的な工程が描かれ実現への道筋が作られる。この大局ビジョンに対して推進と阻害要因を特定する判断が取られそこに経営的センスが現れる。芸術的な構想力に対して、経営的な感性と両面のセンスの善し悪しを評して「小銭をけちって大金を失う」という判断のまずさが表現される。こうした論理から金か名誉かを統合する答えが生まれ、即ち芸術的な資質と経営上の判断力とが価値の源泉に成り金と名誉に対して創造力が先んじられ、ここが欠けては金も名誉もついてこない。従って、原理創造型という秩序が幸福上昇と不幸減少のベクトルを志向する社会ビジョンと描かれて適正な見積もりが現れる。どこかの模倣的な発想に及ぶ以前に、根源的な適正論理を組み上げる力がまずもって要り、その尺度が基軸動態に備わり、多段構成の工程において各所での相対比較から有効性を導出する構図が作られる。

つまり長期性のビジョン創造力こそが価値の源泉というオリジナルな原理に値しそこにもっとも高額な値がつけられる。この調和感覚が積極的平和構築への重要な一歩に連なり、飛躍か停滞か、争いか安寧かを分ける起点におかれ、歴史の転換点における経営者の判断が人々の未来に大きな影響を与える。