平和学の根幹

平和学という漠然とした領域概念の根幹部分に相当する知的体系となるのが、本書における健康概念であり、事実や価値、活動、という人々の基幹動態基盤の確たる認識を形成する事が適正な人間関係の基礎となり、それが調和や平和の礎を創り上げる。

この基盤となる知的体系を感覚的な感性に浸透する事が領域の目標に掲げられ、ただ知識を一時的に頭脳に入力し、机上でのアウトプットで習得をするような評価構造にはなく、活動工程を積み上げる中で次第に発想や思考や行為という全般に浸透し、体質となる所までを想定した教育概念の構成に実際的な効果測定が置かれて、心身の健康を形成するという認識の取り方に当該領域の本質が備わり、一時の学生としての学問というよりも生涯学習のスタンスを持って、基礎概念の入力と出力を身につける捉え方に適正な平和学の真義が齎される。

現代の問題は、頭脳の入力と出力に偏した作業で、測定を取られる安直な判断が生まれ、行為の習慣と浸透している状態を見て検証結果を捉える事が実態的な学問の有効性を実感するに及び、この視点の弱さから言行の整合ある活動が離れそこに倫理道徳の脆弱な実感が形成される。事実、価値、活動、健康という概念の確たる不動則を備える事がこの工程の初期におかれ、正しい認識の頭脳的な把握に及ぶには、感覚的工程体験とが合わさり循環される中で次第に質実の実感に及び、発想の生まれ方にも浸透する事によって実態の検証を持つという枠組みに健全な状態が映し出される。

このような方針や実感規定を念頭にした価値形成の刷新に良質な人間形成の道が生まれ、心技体の整合を作ることに重きを持たせる概念の強化が必要に思います。この常識感覚を強める事が本書の意図する肝要な部分に在り、日本文化原論の全体構成における根本に相当する哲学領域の考え方として説明されます。

つまり、各種のビジョンの表現という部分と、それらを達する上での基礎構造となる認識論や活動論という二層構造で大別され、後者の概念成しに、ビジョンのみという事はなく、言行の整合を前提にした活動プログラムとして纏められます。本書の各所に渡り、哲学の性質が浮かび、実感の概念に重きを置いた活動的な性格の観念である事が伝わる事に思われます。

実感の規定と実際の実感を取る厳密性に事実の概念が生まれ、この感度の強化によって活動性が強まり、同じ観念にあっても感じ方や捉え方の深さや質の相違が生まれる認識を持ち、規定と実感の拘りと行為に比重を持つ事が、頭脳寄りの認識と感覚での実感を繋げるポイントに成り、頭脳偏重からの弊害が予防され、そこに倫理道徳という感受性の実質的な実感が創り上げられ心身の健康体が実感される。

頭脳偏重に度々見られる表現が、「事実は○○です」という言い方を安直に用いる姿であり、正しくは「私の実感は○○です」「私は○○と考えます」となり、他者との異同から共通的実感部分を確認する事により、個別的事実と共通的事実が創り上げられる。無限性の概念や平等思想の弱まりは一方的な断定と強要性を強め、それが傲慢な欲望の現れに及び、各種の不快事象を出現させ調和の作り方を間違える。

こうした平和を阻害する因果を強調する事が文化論の視座に成り、二次情報を実感に多用する安直性への傾向等から、粗雑な事実の形成や対人上の亀裂を作り、その罅に対する早期の修復を避けて歪みが深まり、物理性で強要する哀れな発想に陥る事のない健康な心身の維持に目的が備わります。

一般化と個別性の取り扱いの丁寧な進行とも言い換えられ、一般則とその解釈の多様性という面への認識が弱く、利己的都合のよい解釈をそのまま適用する事からの弊害を肝に据えた真摯な対話から良質な調和への軌道が形成される。うすら馬鹿とは、この認識の弱さに適用される事に思います。 

哲学の観点

各種の法則の発見や創造における長期周期の規則性に人々の変わりづらい価値が現れる。観念的知覚での表現に変換して、感覚的認識から観念的な認識が強まり、規則性の実感に及ぶ。身体感覚的な実感と間に記号を設けて頭脳的な実感におよぶ改定の中で、各種の認識の多彩性が生まれ、この共通と個別の感覚から物事の認識の異同が作られる。

適正な実感感覚という所が基準に成り、どこに標準感覚が生まれるかに、長期性の規則性から作られる各人の感度が生まれ、感覚的な行為と頭脳寄りの行為という習慣の差が感度の違いを生み、そこに不協和感が生じる。長期的な法則性に万人的な共通価値となる抽象観念が形成され、それについての相違は大きな開きは生まれないものの、その実感感覚に活動の違いから差が生まれる。

この点が強調されて万人的な理解に連なり、その実態認識が揃い、不協和音の原因が特定され、快適や不快の生まれる仕組みが解明されて、それを正す方策が作られる。このような所にまで踏み込んだ事象の認識を取る事がベースにおかれ、その認識の上で各種の表現を創り上げる事が適正な創造活動に及ぶ。

「出来た」という認識や、「事実」という観念の中身への考察が弱いと、対話の噛み合った円滑な運びに至らず、平行線のまま相手方に原因を求められ、自己正当性を強めた態度が形成される。このような面が、調和や平和という良好な関係性作りに於いての根源的な焦点に成り、感覚と観念、実感規定、標準の実感、日頃の活動特性、感覚寄りの習慣と頭脳寄りの習慣等々の事へと思索を及ばせて、同一的な根源基盤が形成されて、対話の基礎が揃い、個別性と共通性という価値観の尊重を生む事に、健康な人間関係が生み出される。

完結的循環性をもつ活動観念の提示は、多くの人々の生産活動の長期的な標準形を示し、感覚と頭脳と感情を程よく用いた創造行為の原型となり、この規則性が標準となって健康な感受性を生む感度とされる。今日の分業の進展から頭脳寄りと感覚寄りとの離れや固定性が強まり、感受性の違いが広がる事には、良質な社会の感度が生まれず、感覚と頭脳と感情の三作用を人間の標準と描きそこに全体観を定めた個々人の自己認識を形成して、各種の特性と共に全体協働性を向上させる取り組みが生まれる。

責任感覚の相違という実感の差等や、犯罪認識の実感の差等が、こうした面から解明され、認識差が生まれないような施策を投じる事が、安定的な基盤を強化する事に及び、土台の良質性の上での自由領域が形成される。因果関係の横の広がりや、上記のような縦の深さの相違が生まれる仕組みの理解を深め、同一的な認識に到達させる事が、各人の理解や社会の仕組みづくりの初期的な所になり、ここの共通実感性を確立させる事が、本書の文化論の中での認識論等の哲学の思索領域に配されます。根源的な哲学のしっかりした空間秩序に健康な持続的成長のベクトルが創り上げられる。各種ビジョンという抽象表現と実施工程の円滑な創造を成す上で、根源的な哲学の知見が欠かせない領域と成り、その要点として以上の説明が取り上げられます。

根源的な価値算定式

小銭をけちって大金を失う事が経営者にとって最も経済センスの悪い判断であり経営を単純尺度で測り適正な算定の劣った感性という結末に及び人々の幸福感情に反映される。投資判断にも通じ行き着く所は価値の算定であり、無限性の中に於いて、如何に価値の適正算定を出来るか、そして価値を創り上げられるかに人間の価値が生まれる。衣食住といった必要条件とその水準が一定程度満たされ、概ね安定的な調達が取られ、次に求める事は、仕事上のやりがいであり、如何に多くの幸福感情を創り上げられるか、或いは不幸な感情を減少できるかに創造上の価値がつけられる。つまり、幸福や不幸の静態状態と動態状態の規定をどのように法則と規定されるかの創造力とその納得性を描き出せるかに最上の価値が生まれる。

これに照らして、それに資する事柄に価値の序列が生まれ、数値を組み上げるのが根源的な側面からの算定式になる。衣食住という下限の欲望と、この積極的な高次の世界との割合感覚から金銭へ変換するのが絶対上の原理構成になり、この見積もりを作り広く訴求して納得性や信憑性を作りだす力に価値の源泉が生まれる。つまり魅力ある図式の創造力と達成へ向けた信憑性を表現できる能力に動力源がある。

この構図が根源性の創造図面に成り、原型が作られ他者からの模型として参考に取り入れられ、相対的な原理になり二次三次の付加価値が生まれる。この論理に沿って現実上の資源を適用して具体的な工程が描かれ実現への道筋が作られる。この大局ビジョンに対して推進と阻害要因を特定する判断が取られそこに経営的センスが現れる。芸術的な構想力に対して、経営的な感性と両面のセンスの善し悪しを評して「小銭をけちって大金を失う」という判断のまずさが表現される。こうした論理から金か名誉かを統合する答えが生まれ、即ち芸術的な資質と経営上の判断力とが価値の源泉に成り金と名誉に対して創造力が先んじられ、ここが欠けては金も名誉もついてこない。従って、原理創造型という秩序が幸福上昇と不幸減少のベクトルを志向する社会ビジョンと描かれて適正な見積もりが現れる。どこかの模倣的な発想に及ぶ以前に、根源的な適正論理を組み上げる力がまずもって要り、その尺度が基軸動態に備わり、多段構成の工程において各所での相対比較から有効性を導出する構図が作られる。

つまり長期性のビジョン創造力こそが価値の源泉というオリジナルな原理に値しそこにもっとも高額な値がつけられる。この調和感覚が積極的平和構築への重要な一歩に連なり、飛躍か停滞か、争いか安寧かを分ける起点におかれ、歴史の転換点における経営者の判断が人々の未来に大きな影響を与える。

 

世界的な常識

面子への拘りが生まれる事は、健康な活動を成されている人々に在っては自然な姿に思われます。しかし、過失を招き損失を与えているにもかかわらず、その事への真摯な態度を示す事が出来ない事については、大きな勘違いであり、傲慢な人間の顕著な例に思います。

どんな立ち位置にあっても、損失を与えればそれに対しての損害を賠償する事が、自然な振る舞いであり、面子へ拘りまともな感性を外して、独り善がりの態度でいる事の潔くない姿には、嫌悪感を超えて、失望感が生まれ、信頼性の棄損ばかりか、悪性を広げられる。

フラットな感受性を外す事からの負の影響は、失敗への率直な態度を見せられない歪んだ精神性に及び、ここに平和を阻害する人間の歪んだエゴの姿が生まれ、ひび割れや亀裂の深さに連なる。文化論が強調されるのは、こうした問題焦点を根源的な悪性と捉え、大きな負の事象を予防する為の人々の相応しい構えを示す事になり、利己的で一方的な強欲性に対して、理に叶った人間の初期的な心持を描き出し、健康な関係の持続的発展に繋げる為の営みとして描き出されます。

物理性への過度な依存からフラットな感受性を外して傲慢さが進行し、失敗や損害へ対する当たり前の償いが取られない事に、人道と乖離する醜態と映りだされ、そこに不快感を表すのが万人的な感性であり、この事へのズレを生まない事が、根源的な制約と備わり健全な秩序が堅持される。

いつの時代にあっても不動の価値になり、これを守れない事に対しては、看過する事無く、一切の妥協をする事無く、当たり前の態度を示す事が不可避とされる。一時の局所性で済まされる秩序ではなく、長い時をかけ創り上げられた価値については、万人的にその秩序を守るべきと課せられる事に在り、それが次代へ引き継がれ不変的な人間の意思と固まり、価値の持続性が果たされる。こうした事への規範感覚が緩み安易な犯罪が進み、例外を作りだす事によって価値の瓦解が起こり、なし崩しの空間秩序へ及ばせる事は一種の罪とも伺える事であり、根源的な不動性に対しては敏感な反応を創り上げる感受性が必然に思われます。

優先的な序列感の共通性として幅の生まれづらい事と捉えられ、経済的な取引のみでは済まされない価値の棄損という性格の事柄とを峻別できる感性に、人間の理性を重んじた姿が現れる。この強固な柱を少なからず作る所に主体性や独立性の概念が実感されて健康な心身を有する人間の姿と確認される。

堕落感とは、これを持たない感受性を指し、金で何でも済ませる発想や行為に対して当て嵌められる言葉であり、物的感性の慢性化した正しく頓珍漢な面子に拘る強欲性に在り、これと映る姿に対しては、鮮明にその実態を露わにさせ、悪性への対処や予防を講じる事が個々人に課せられた責務という認識を少なからず持つ所に、健康な感受性の所在が確認される。

こうした文脈が文化論の根源性の核心部分であり、このような認識を持たれた先人たちの意思を少なからず引き継ぐ事に、歴史や人類の一員という認識が形成される。事柄の重要性の認識の弱さや、逃げられるという甘い発想は一切通じる事無く代々に渡る汚点として人々の記憶の奥深くに刻まれる。根源価値への認識の弱さが強まる傾向には毅然とした態度で歯止めをかける事が絶対的な原理と置かれる。おそらくこれが世界的常識と思います。

文化の中枢観念

本書では、文化観念体系や詳述について取り上げます。それに先んじて文化の中枢部分の形成を以下に試みます。この面が良質な有機性サイクルを作る上での勘所に思います。体系の根幹という凝縮した性質を中枢に添えて、一つの有機体としての魂が注がれる。正負の人間像の認識から畏敬の念が生まれ自他との共存性へと意識が向かう所に他の動物と顕著に異なる理性をもつ人間の姿の実感が生まれます。

この共存性という在り方への適正感覚に調和や平和という均衡感覚の付け方が生まれ、そこに見る快適性が感受性の具体的な現れと成り、この点への異同感覚の共通性が高まる事に根源的感性の同一性が生まれ良好な関係への起点となる。年齢や性別、職業や所得、社会的地位という何がしかの意図的な観点をつける以前の所与的な状態でみる均衡感を維持できる感性が文化感覚と言い換えられ、この部分が少なからず堅持されて素の均衡性をもつ主体と知覚される。

つまり、諸条件という何がしかの意図を抱く以前の状態で見る感性が内蔵され、その状態での対象との同一感覚を持ち、自己と他者への同一的な公平感による振る舞いを取れる事がフラットな感性となり、この性質をどんな諸条件の変容が生まれても一定程度備えられる事に文化という根幹の性格が示される。経済性の概念を抱く以前の同質性概念という実態的感受性に、調和の初期状態が生まれ、そこで適用される規範が基礎的な不快行為を与えないという自他への制約になり、これを保てる所に理性や感受性の性質が現れる。

これが自制力という面になり、何者かから強制される事のない自身による均衡性への欲望となり、身を律する反応が成長過程からの躾などに起因し、どんな状態に至っても変わらない感覚として内蔵され、文化の程度という質の相違が実感される。

この良質性や程度差が、関係形成の初期的な面に配され、あまりにも違うという感覚に及ぶと本能的な拒否反応が生まれ、関係の深化には及ばない。つまり、自制力、自律心が核に成り、自発性や能動性の程度に現れ、独自性や主体性という姿に及び、独立的主体性という感覚が生まれる。

この人間の所与的側面に見る性能が、良質な調和を創る上での根源に成り、幼少期の時点から基礎反応として入力されて、社会人となってからも皮膚感覚に備えられる体質面での知覚に及ぶ。これを育てる事が自主内発性の義務や責任と課せられ、そこに快適感を抱く感性に、文化の内蔵される主体性の実感が現れる。言わば下限の制約となり根源理性を違和感なく自主的に求め、対象との交わりを行える為の準備工程と位置づけられる。少々固めの表現に成りますが、文化観念の中枢として相応しい捉え方に思います。

この直接的反応を示す事の繰り返しで、当たり前という感覚が作られ、間接的には各種の行儀作法を重んじられる型式が作られ、この文化感覚を鍛える場として取り上げられる。こうした面の強化策を少なからず導入し、基礎モラルの低下を予防する持続的な活動の必要性を感じられる人々も少なくないように思われます。知育に先んじてこの育成が共に備わり調和や平和の基盤が形成される。強要するより自然に望む感性が代々好き感受性として繋がれ、文化の良質性として認識される事かもしれません。開放的な欲望が生まれる一方で、引き締め的な欲望への志向性を持つ所に健康な感受性が作られ、耐久性を持つ持続的循環への骨格が形成され、適当な緊張と緩和の取り方や、主客への客観的な認識を生み、それに応じた反応が育ち、調和の上昇軌道が創り上げられる。

欲望と力と責任の均衡感覚の高まりに及んで、マクロ上のシステムへの適正化にも及ぶものと思います。現実的には、個々人に寄る取り組みというよりも全体での志向性になって達成される実感に思われます。

 

良質な根と基軸動態

1)良質な根と基軸動態
大志を抱く事は後ろ向きな発想や微細なズレに陥らない上でも大切な事に成り、基軸動態の健康な道筋に在る事がエネルギーの良質な生産を持続させそこに同質的な人格が集合する。目先の物的感覚に偏した物理力による求心性への回路に偏重した基軸動態は人間の根源的なアナログの感受性と離れ、機械性を対人上の悪用に陥り健康な心身と外れた利己的な願望の異質性にと深まり、心理的にどこかマイナス性の体験が尾を引き、人からのプラス感情を作る向きに回りづらい。このような力と技術、その用い方という面に人間の性質が現れ、良質な感受性を持つ人々の間でプラス型の相互交流が増進し、心理的な好作用という向きに力を用いる秩序が高まりを見せる。この率直な心の向きと技術の向上とそれを感じ取れる同質的な感受性という所に根源的な求心性が宿り基軸の太い長期性の共生と自立の関係が創り上げられる。
大きな志とはこの健康な感受性を根にした軌道を常態する活動を備えたアナログ的な情緒を根にする技術の向上という性格を指し利己的願望の偏重や力の悪用へと及ばない確立された倫理道徳を土台にした生産活動と言えるのでしょう。ここに在る人々が、社会の中心的なエネルギー源となり、良質性の連鎖を生む牽引者と知覚され、後ろ向きな発想を縮小させる基軸動態を構成する。自ずと普遍性や真理という万人的な共通価値への志向が生まれ、それを追求する活動には純粋な支持や共感が形成され、目先の利害を超えた大きな利益に対する本能となり細かな打算よりも自然な感受性に快適をもつ反応が形成される。
原理探求型の秩序形成とは以上のような所与的美性に準ずる創造志向を抱く規則性が現れる空間原理と実感され、物事の付録的な面よりも柱の良質性に着目した骨太の発想に比重をおく力強い肯定感による歩みになり、これらの根元にはアナログの人間像を基礎にする各種技術の上昇という循環系の有機体と捉えられる。
そこには、盗みや詐欺、力の悪用といった発想は皆無であり、この性質を含む主体性は中心的な配置に備わる事はなく良質性の阻害因子という認識で捉えられる。社会の基軸には健康な心身を有する主体性が中枢に配される事が中長期の安定と繁栄への必須条件でありこの面が最も優先される事柄に思います。ごく当たり前のシンプルな要所を外さない事が不動の感受性を表し、細かな一過性の事柄に振り回されない正眼を定期的に確認し活動を持続する所に大きな幸福感情が得られるものと思います。
人からの信頼を棄損させる行為は大きな代償を生み物理性で強引に強要させるような手法にはますます人を遠ざけ孤立性の感情が深まりそれを補完する為に物理性を追いかける負のスパイラルに陥られる。良質な根と基軸動態という利に叶った信用を外さない歩みに真なる平和が形成される。

方法に見る適正

 

人間には、自尊心が少なからず備わり、人に言われて従う事を嫌う性質を持つ。この根源的な面を踏まえ、意図する結果を達する事に、実務者としての能力が計られ、目的は同一でも物事の運び方に差が生まれ、それが結果に反映される。

なるべく、小手先の発想は用いるべきではなく、しかし、こうした側面への配慮を加え、実効性の在る方法をとる事に、実現への拘りが垣間見られ、感受性の差が達成への実現の差に現れ、多彩で精緻な認識力を生み、方法へと連なる。人間の心理面を良く良く捉えて、自尊心という面への配慮をとり、意図する結果を導出するように物事を動かす所に、実態的能力が計られる。

ここに現場感覚や人との体験から学ばれる実際的な差が生まれ、観念図面へ偏して生身の対話が弱く、適当な方法を描ききれずに、対立性を作り、実効力の上がらない手法に及ぶ事がしばしば生まれる。目立ちたいという欲望や大衆受けを意図した動機という推察が浮かぶか、上述のような物事の運びの至らなさという評価に至り実務能力の弱さを感じ取られる。

型どおりの論理や正論という抽象原理と、その適用に見る繊細な物事の運びとで実現能力が算定され後者の相違が多々見受けられ、心理面の体験的な積み重なりの脆弱な所からプライドばかりを先行した粗雑な表現による停滞を齎せる。

原論ばかりで、或いは頭脳ばかりで、単純な論理をそのまま実際場面で適用する姿に、感覚面や心理面への配慮の弱い姿が現れ、表層の権威や型式への拘りが、対象の真摯な対峙から実行力ある方法への思索が深まらずに、単純図式の対立性を創り上げられる。

抽象原理とその適用という所に多彩性が生まれ、方法とその真価を見極める嗅覚に、真相を正しく掴みあげる力が生まれ、頭脳と感覚の程よく回る規則性からこの面が発達する。なるべく、率直な反応を見せる事が正攻法な歩みであるものの、動機の健全性を根にしたパフォーマンスという事も現実社会の変革には許容される。

空のプライドへ偏して、自己の欲望を先行させ、結果が付いてこないといった事象が度々生まれる。他利を達する執着心が実効力への優先を生み、方法の有効性を作り実態的に物事を動かす。実務者能力は、ここを重視して算定され、観念上の評論にこの面への視野が及ばない事には真相を誤って伝える事に成り、実態は感覚や感受性という生身の察知力におかれ、それが観念表現の違いを見せる事からも感覚的な生産性の過程が強調されて対象の良質な認識や方法に到達する。

所与的な作法を飛び越えて利己的欲望に偏し、とんでもない不正を平気でやらかす感性に根深い異質性を感じ、成長過程や教育、躾への誤りや、物理依存の拝金性へと偏り、求められる責任と実際の能力との開きが生まれるような傾向に対して、正常なミクロマクロの人間像が描き出されて、適正な改善への進行が加速するかに思います。

2つの客観認識

一方的に不正な手段で監視を行う事は、どんな法律に抵触するのか定かではありませんが、健康な心身を有する人が取られる行為とは思えません。盗みという初歩的な事から、現代的には人権の侵害にも相当するのかもしれません。おそらく憲法という根源規定に関わる行為であり、どんな行政機関のどんな根拠で行うにしろ、根源規定から見て裁量の範囲という判断に及ぶ事は考えづらく、直接性か二次的犯行かは定かでありませんが、まともな感受性を超える行為という認識に至ります。この事に加担している共犯者も少数ではない事に推察され、そこにも人格上の欠陥を感じるものであり、相当根深い集団的慢性化した感性の異質な行為に見受けられます。

こうした事象を一つとっても箍の外れた堕落という指摘に及んでも致し方ない人々による責任感覚と力の大きさとの過不足を起こしている状態を感じます。共通的欲望の達成を意図する政治行政というインフラやその周辺の集団的な秩序形成に見る局所的利益の追求と伺え、健全な文化水準を牽引すべき立場の下落についてはその悪性の影響が甚大であり、緊張の緩んだ長期的な体質と思われる異質性には、改善というよりも交代や隔離、解体が相当の判断にも思えます。この応急対処的な反応と共に原因の多角的な考察を加え、システムの観点から見る再設計に思索が及び、ミクロの人間像から浮かぶ基準感性を想定して不快行為の個別的感度を確認しその感じ方から見る相応しい改革の程度が現れ、予防の程度が考案される。

どこのミクロ感覚を標準とするかに、政策や制度の実際が構築され、マクロの観念体系として積み上げられる。マクロ観念という抽象性のみには、実態性が弱く、ミクロの適用に見る感度が、人々の実際的な感受性を見る事に成り、原則と適用の実感の仕方にどんな論理を構成するか、つまり、直接間接の因果関係をどのように感じ取るかに感受性の質実が現れる。こうした事象をより根源の層から解析するのが、先に取り上げた思想の根源にみる受益と負担の感性に在り、頂いた物事に対する適当なお返しという感覚にみる健全性の作り方について、どこを標準として過不足や許容性を想定するかに根源の感受性が現れる。この規定の仕方にも、生産者という定常的な規則性に見る適性と、生活者としての適当な感性等といった限定性を持ち、各種諸条件の設定とそこでの因果関係の標準的方程式が少なからず意識的か無意識に備わり、そことの誤差がズレとして生まれる。諸条件を緻密に組んで明瞭化させるにも、程度があり理詰め的に正誤や善悪をつけきれないのが人間社会の複雑性にもなり大なり小なりの不満を抱えるのが多くの人の状態と現れる。

しかし、システム的な観点での欠陥感覚については看過せず、改革を断行するのが適当であり、個々の事象への対処というより、それら趨勢や集計から原因の特定と改善を適当な周期で更新させる事が事前的に組み込まれた人々の活動であり、総括と改善という作業から緊張と緩和の動態が出来、基礎的感受性の維持が取られる。生活スタイルの変化から、この大幅な乖離や急速な変化には、相応の制御をとり、自身の感情の生じ方に見られる変化を焦点にした人間側の把握と外界との対話という向きが生まれて、調和や平和という観念と触れ合うといった構造からバランス感覚という面が磨かれ、心と体に見る健康さの認識が生まれる。特定の所属集団における健康な感性と他集団に在る標準感覚との交わり等による気づきや新鮮さ、或いは異質な不快性など、プラスマイナスの感覚を抱く事により、自己の標準感性への変更の契機等も生まれ、適度な流動性が客観性を高める作用に及ぶ。変わりづらい部分と共に、フレキシブルな面とが併存して、日々新たな気力が持続する。これらの動態が活力の源泉とも捉えられる。

そして、本書の各種ビジョンはいわば標準感性への提案という性格にありミクロマクロの人間像を描き出し、この根源的な側面からの原理を持って、良好な建設的好循環を意図した制度の構築や創造活動に反映されると想定されます。自己の主たる生産技術とその外側からの評価を認識するのにマクロ観念の想定が欠かせずその全体観の中に自己の技術が配置されて全体と個別の重層的な客観認識が生まれる。更に、その認識に対して他者との認識の異同や発見、反省をもつという二つ目の客観認識が生まれる。

この構図が意識されて技術と社会性を含んだ持続的向上の軌道が生まれ対象と主体を内蔵する文化の道が浮かび上がります。堂々とした文化基盤により不快な事象が予防され、いずれの結果に至っても納得感の生まれる清々しい快適性が生まれます。偽善という行為や自己都合的な論理への偏り等という感性で塞ぎ込む事のない、真正面の対立への免疫を強める事が現代の課題に思います。精神的ひ弱さから生まれる物理依存症は心身の歪みであり、真理という探究を止めた人々の客観認識を欠いた姿に成り醜い正当性と現れる。

思想の根源-因果認識

思想の根源-因果認識

貢献した分のリターンを得るのが納得性の高いエネルギーの投入と見返りの仕組みに成り、この理屈が万人的な抽象原理と備えられ個別解釈に多様な見方が現れる。欲望と充足、その範囲や深さ、実感の程度や持続性といった変数が浮かび、明瞭にしやすいい部分と曖昧な部分との程度が生まれる。「因果関係の実感をどうとるか」がこれらの算定に及び、感覚性の事柄と情緒的な作用の抱き方の相違から個別性と共通性が生まれる。

 

その範囲や深さ

実感の程度

持続性

欲望

     

充足

     

ここに人間の根が置かれ、成長過程で作られる個別条件から生まれる感度が備わり、有難味の抱き方が作られ、その認識から反映した行為が生まれる。この均衡感覚に適正感が生まれ、不足に不満、均衡に普通、過剰に対して満足と見るか、不満と見るか。

この根源的な側面があらゆる事象の土台に備わり、各種創造や協働と自立の感覚に及び、同一的である事が快適感を作り違いが大きい所に様々な不協和やマイナス性の感情が生まれる。管理的な業務と現場的な業務とを経られて、いずれの工程における困難な面を知り適当な感度が育ち、感覚差の広がらない反応に及びいずれか一方に偏する事に対して正負の作用が生まれる。

この事から活動動態の完結的な標準図が示されて、それを基準に適正感覚を探る事に成り、更に活動動態から積み上げられた適正観念像が生まれ、その比較が執り行われる。こうした思索が感受性の客観性を作る取り組みに成り、個別性に対する適正基準と調和を作る共通的根拠が生まれる。

公平や公正、平等という観念はこの面がベースに成り、因果関係の取り方から抽象的理想を示す観念と感覚の解釈が生まれ、事象の認識を作りだす上での所与的な焦点となり、実感性の相違を探る視点が備わって、真相や真価という感覚が掴みだされる。同じ事象についても人によって感じ方の差が生まれその認識から論理や行為の相違を生み、感受性の異同の実感に及ぶ。詐欺や盗みという行為への認識も、この実感の取り方から始まり犯罪意識の相違を生む。

以上の事からも、文化という根源的な感受性の近さを作る事から細かな相違への許容性や、対立よりも相互補完的なエネルギーに回り停滞的な状態の予防に連なり好循環という軌道が強まりを見せる。どこに標準的な実感感性を見るかに、あらゆる基準の根が置かれ快適や不快の感覚が現れる。こうした事から根元を揃える試みの意義が備わり、ボトムアップの感性の厚みとトップダウンの創造という両面を睨んで個別状況に照らした変化が創り上げられる。

 

1)文化原論

1)文化原論

本格的、正統的な文化体系を示します。人々の背骨となる価値と思考や行為の確かな基軸論理を体系だてて構成する骨太の普遍則と纏めあげ、文化という言葉の内容を明瞭化させて、認識が強まり、迷いの少ない行為や考え方を確立させる事が、良好な産業経済、政治行政、教育へ連なる事と思います。

様々な研究者によって、多彩な切り口による文化観念へのイメージが創り上げられ、そこに見られる一貫的な抽象集約や、自身の活動の歩みから創り上げられた長期的な原理を一つの実感の高まる体系へと収斂させる試みに成ります。

主要なキーワードは、平和、正負の人間像、平和への方法、平和の実感といった層での論理を標準的な文脈に取り、これを哲学的な層から、真善美、主客、調和等の観念を用いて論拠の根源的な厚みを形成し、この2つの層の間には、ミクロの人間像や社会ビジョンを示し、3層程度の重層構造によって、文化観念の全体系を表す事に成ります。

このような横の流れと、縦の重層性を構造化させる事により、緻密的な概念形成が生まれ、感覚と頭脳側との交流を持たせた質実性の上がる知的体系の実感に及ぶものと考えます。これによって全体性や、根源性の備わる納得性の高い文化観念が表され、感覚にも良く届き、そして脳裏に強く残り、更に感性へと浸透し、価値や言行に統制を与え、実態的な作用の強い表現と成り得るものでしょう。

長期的な歴史の積み重ねと反省から、確かな未来を創り上げる規則性原理が纏められ、不動性を帯びた論理と固まり、人間の本質的性格として備えられ、そこから平和という幸福感情を示す実感への軌道が確立する。個別的価値や中期性の共通価値を生みだす長期の根源的価値の厚みが前二者の良質性に現れ、そこに自主内発的な主体性を含む人間の躍動的自由と寛容の世界が生み出される。生命が活き活きとし、且つ健康な基盤面を含み、共生的感情やエネルギーの好感や集中を叶える共同体の姿と現れ、安定と繁栄の両面を内包する持続的な活動への道が創り上げられ、そこに、幾世代にも渡る平和という実感が繋ぎ現れる文化論になります。いわば、人類の美感となり永遠に生き続ける精神的な動脈を描き表します。

消極策と積極策

これらが積極的な人間創造策というアプローチで在り、これに快適を感じるか、或いは、この中での最低下限の部分の限定性を強め、ここだけは互いに守りましょうというアプローチを用いるか等の協調策が生まれる事でしょう。

後者の部分が、「盗み、傷害、詐欺」という行為で代表され、詐欺的感性から盗みへ、そして傷害という物的衝突の過程が想像されます。言い換えると、積極アプローチは、詐欺体質の予防となり、下限的不快へと入り込まない施策に思えます。盗みや傷害の原因には多様な想定が浮かびます。つまり、こうした不快事象の認識が置かれて、そこを少なくとも守る事が、積極的なアプローチ云々の以前に置かれ、それなしに、様々な上昇策等という発想には本末転倒の姿に見られ、自己への制約を課さずに他者への過剰要求に陥る事のない調和の姿に適正感覚が生まれ、そして次第に無理のない積み重ねをとり、積極的な共通性を見出す歩みに自然な共生と自立の形成を見ます。

現代の特性と見えるのは、自己に課すという感覚が弱まり対象への過剰な要求を強める事への不快が生まれ、最低下限の制約を守らず御託を述べ要求する一方向的な感性への異常であり、ここが強調されて良質な調和策が生まれる事でしょう。