根源概念の健全性

犯罪を見て、それに立ち向かわない性質は、大きな利益を望む要件に無く、適当な欲望と責任の範囲が自ずと浮かび上がる。自己の性質は自己が最も良く解り、マクロ観点上から見て望まれるであろう力の質量と、自身の立ち居振る舞いとの客観認識を持ち、過不足の認識が生まれる。

積極的創造策への初動的な視点が、この自己の性質とマクロの観点との比較で在り、これを外して物的欲性から、力自体への志向性をもつ事は長期的には×がつき持続的な成長の足枷となる。他者からの指摘を受ける以前に、こうした普遍的な原理による自己自体の振る舞いを作られる感性に、健全な心身の所在が確認される。欲望過多で他利への志向が弱いものであれば、それに相応しい領域や立ち位置が生まれ、過不足への認識を取らずに居座るかの判断は、歴史的、文化史的に汚点であり、根源的な原理に照らした二次三次の原理の創造と適用という事が少なからずに意識に備わり共生感情を備えた主体性が生まれる。

原理探求型の社会とは、誰が考えても納得性に及ぶ筋道を重んじる価値の形成に在り、物的要素を排して純粋に現れる確信性の高い論理を描き、それを追求する姿勢や行為に比重を持つ事であり、この感覚を強く持ち実現への強いエネルギーを投じる所に理想と実現と方法の構図が浮かび上がり人間の価値が上昇する。

この中に、永年の時をかけ創り上げられた絶対的行為類型が作られ、これを超えて人さまの為等という感覚に至る事は歪んだ美性を表し特異な道筋から生まれる歪みと映し出される。この行き過ぎた行為に偽善という言葉が当てられ、感受性の可笑しな状態と知覚され、不快性の高い事象に現れる。主客の分断性が顕著であり、日本という空間における永年の美性と乖離した不調和感が作られる。理由の付かない本能的な反応であって、個々の事象の積み重ねから見る規則性の高い不動の原理という認識に及びます。これが下に成り、それへの名称に平等思想等という言葉が付く。極めて人間の真理に近い実際性を表す美的感覚が永年の空間秩序と形成されてきたかに見受けられます。

物的欲望への過剰性から、それに資する人口的な制度が作られ、この調和性への価値が希薄化され、私的欲望過多の体質へと進行した。価値観が崩れ物理性へ押し流される姿と映り真理と逸れた感覚が生まれます。制度の力がやけに大きく、その用い方が極めて限定的な利益を志向され、大きな価値を阻害するかの事象に映る事も少なくなく、この傾向や趨勢にはどこか異様な感性の所在の実感に及び、本筋の軌道を壊した原理探求型の社会とは異質の世界に映ります。

この感性が、至る所の制度に反映され、或いは物的原理に従う皮膚感覚の増進となり、調和性への根源的な概念に立ち返り本筋への軌道へと修復するといった論理が現れる。

成長過程からの特異性と、物的原理への荷重や、観念に偏した体質形成が、マクロのシステムへと及んで、本来的価値概念と外れる規則性へと連なり、主体性のない、自律性の壊れた人間を多産される。力や調和の概念の取り違いに対する是正をせずに、ただ物的快楽への野放図な創造の末に及んだ実態という表現にも、因果の実感が作られる事かもしれません。犯罪への無頓着な感性がそれの証にも思われます。

真理という感覚と離れた全体観の進行と纏められ、調和や力の概念の相違が、これらの事象認識の異同を作り、取り返しのつかない衝突を招いている。根源概念への思索を深め、当該空間に元々あった良質な感受性を内部から創り上げ、外部へと提起する筋道が、原理探求型の社会に相応しい道筋にも思えます。外部の力を借りて内部を換えるといった手法には、安直性や物的利便性に慣れた物理原理に荷重を持つ短絡性の人間にも映り、局所と中局と大局の同時並列的な進行がイメージされて方法の適正となり、力への依存ではなく力の適正利用という実感が生まれる。

大志を抱く事と実際のミクロ感覚の整合が弱いものであると、犯罪への不快感が強く生まれず誤魔化しの論理へと逃げられる。体質形成過程の相違が感度や論理の違いに及び、力の依存と力の利用との相違に至り、中身の取り方も違いが生まれる。

 

平和の軌道

犯罪者の体質は今日明日という短い時間で改善できるものでなく、社会システム上の全体観から見る基軸動態には、この性格を配する事のない健康な心身を絶対性の高い要件と備える事が必須となり、比較的容易にこの性格の識別は取られる事でしょう。長くしみついた性格であり、冷静に距離を持って規則性の分析を取れば、主体性の形成度が確認され犯罪への制御可能性が計りだされる。

本書で掲げました身体と頭脳の良好な循環から適当な感受性を持つ健康像が示され、生産行為の適正な標準像を描き出しております。そこでは市場へ向けた付加価値の規定と実施の検証を適度に内蔵する仕組みが備わり、緊張の持続に及び詐欺や盗みの抑制される体質が生まれる。逆にいえば、この構造にない規則性から緩みが拡大し、物理性と理性との乖離による精神的な狂いが生まれ、他者のものを自己のもののように扱う感度が強まり、異質性の高い発想や行為を進行される。

権力や財力等の力に対して自己での適当な制御が効かず、この意味の他律的な性格が、犯罪や不快行為を招かれる主要因となり、感覚の慢性的な規則性へと固まり主体性のない人間が出現する。こうした因果分析の抽象図から、個々の局所的事象を動態的に適用して、性質の見極めを執り行い、人格と技術の比較の上に、エネルギーを投じる事が良質な空間の形成における要の指針と描き出されます。

自己制御の出来ない主体に、大きな対象の管理責任等は到底不可能であり、ミクロの感覚事象からこの面が浮かび、犬猫的な性質の強い自己制御性の働かない人間が特定されて、力と責任の過不足が鮮明になり、人的要素とシステムとの適正を作る施策が展開される。これが構造改革の道筋になり、人的要素と技術力という観点から個々人の性質が算定され、相応しい配置が創り上げられる。根元と背骨のしっかりした空間秩序への志向を持つのであれば、こうした論理に共感が高まり、問題と好感というプラスマイナスの性質が特定されて、何を優先事項にすべきかの序列の共通性が次第に纏まる。消極的な制約要素を満たさない積極策は長期の観点からは愚策と成り、人間の中軸的な価値の堅持された前進策を土台にして、持続的な発展軌道を創り上げる事を不動的な感受性と浸透させ良質な文化基盤の下落を防ぐ事に連なる。

歌舞伎や相撲といった特定の生産領域に限定した文化という概念と、こうした包含的な焦点で映し出される文化との相違を持ち、長期的に健康な人間作りの要点を押さえた創造策が提起され目指すべき方角に備わり、現況を把握して正負の識別に及んで、正しい選択や変化への軌道が生まれる。システムを作る事や動かすのは、人であり、人の良質な感受性があらゆる創造の動源に成り、このエネルギーの質量が計られて適当な配置を作る事が全体最適性の指針と現れます。

生産面からの創造ばかりではなく、日々の購買の中で、製品サービスの良質性に加え、それを作り出す人々の良質性が加味されて、中長期の健全な需給構造や社会秩序に及び、文化水準の維持と上昇が創り出される。犯罪に及んだ人間は一定の更生機関を課し体質の改善に及んでから、積極的な創造策を意図される事が適当であり、悪性の基盤を抱えて人への利益を提供できる性質や立場にあらず、この客観認識をもった表現活動に主客の健全な調和性が生まれ、平和という道への軌道が作り込まれる。これを粛々と回せる事が社会の自然律になり、自浄作用を内包した長期の不変的な構造が持続する。

文化論の総枠的な観点

積極的創造策には、個々人の嗜好や志向から様々な相違が生まれ、必ずしもピタリと一致しないのが実際になる。この一方で消極的な不快行為への制約は、限定性が生まれ、こちらは少なからず守る事が望まれる。この対話や関係における秩序の付け方に不動性が現れます。協働生産においては、技術と市場が想定され、持続的な成長軌道を求めた発想を定常的に持ち、速度感や強弱感、順序の取り方、手法への適切性等々といった細かな方法の差が生まれる。事実認識の相違や理想となるビジョンの細かなズレ、実現への執着心といった事が、方法面の違いを生み、それをなるべく広がらずに、同一性へと近づけるのに、時を重ねて、直接の協働生産に関連しない面までも伺い知る中で、人々の性格の奥底までの理解に到達する。これが直接上の生産での方法の差を調整する上での材料に成って、快適性の高まる方法の進行等へと発展する。

率直な意見のぶつかりを常とする感覚や、時を長めにとった意思の同一性を作る感度の持ち方等という反応の形成に、現況への危機意識等の事実認識の相違が、進行の速度感や適正方法の差と生じる。このような面からの不快感は、前進性の方向にあるもので、歩んできた個々人の個別性からの相違として一定の許容性が作られる。積極的な創造策上に在るズレであり、建設的な発想上での不協和感であり、人格そのものまでに対して嫌悪感を抱くような所にまでは及ばない。

こうした一方で、消極的な制約への抵触といった事柄は決定的な信用破綻を起こし、微調整や修復の困難な絶対性の感度が創り出されるのが多くの人の感受性にも思われます。

これを容易に考える感度が、今日的な問題の焦点の一つに備わり、それが生まれる原因分析や対処や予防の適切な実施という面が、人間形成における下限のインフラ基盤の崩れを留める重要な施策という認識に及ぶ。ここでの方法への感度差という事も生まれ快適や不快の相違が生じる事でしょう。

 

こうした感覚の崩れの原因に大きな点からは、ライフスタイルの変化があり、中期観点では、ライフスタイルへの細分化した構造的な焦点へと絞り込まれ、更に短期上では、個々人が属する生産的な環境特性による常識感覚の相違が生まれる。

ライフスタイルという長期性の観点に、自然や人間という大きな観念からの規則性の変化の分析が取られ、抽象的な根源性に近い所での事象が描き出される。この感受性が根に成って中期構造への志向性が生まれ、個々人の生産感覚という短期視点に及ぶという因果の実感が一つ現れます。

そして、幼少期からの教育、社会制度上の教育の在り方へと根本的な視点が注がれて、人間形成過程の初期的段階における適正化への思索が進行する。或いは、中期構造上の力と責任の過不足への適正化策へと向かい、社会システム上の各種領域の要件定義やシステムの大きさ、稼働上の適正へと改善の方法が考案される。短期性のより限定した領域での感度の変容へも連なり、短期から中長期の全般に渡る変化の流れが促進される。

積極的な創造策が本来的な前進性の軌道にあり、消極性の事柄はどちらかというと面倒な関わりを持ちたくない事に在り、しかし、肥満体質や精神面の脆弱化から、その影響が直接間接に生まれる状態にあっては、この面への着手も必要になり、後ろ向き体質の抜本的な改革という面が作られ、更に、欲望の適正化という積極的な創造策自体への変容も含んだ大きな視野へと発展し、これらの基準に心身の健康像という人間観が示されて、それとのズレの把握から修正という方法の軌道が作られる。

こうした創造活動の全体観が形成され文化論という領域がこれへの方法と備わり、事象の鮮明性を創り上げるとともに、改革点の絞り込みへと連なる事でしょう。

現況の人間像

真摯な姿勢から過失を認め、それに対してここぞとばかり攻撃する姿勢には、程度によって不快感が現れ、全滅させるような欲望に及ぶ事には異常な感情の心象を受けるというのが傍から見る感じ方に成り、多くの事は、良い面と悪い面との併存した状態で掴む事が共生共存本能を持つ人々の感覚に思われます。

逆に、過失を認めないで惚けたまま、逃げ切れるという発想からは修復する事はなく、他人を誤魔化すばかりか自分も誤魔化し、動揺を抱えたままそのつけがどこかに現れる。或いは、誤魔化しを重ねそれが体質に成り下限的な善悪にも鈍感になり、大きなしっぺ返しを受けるのが歴史からの教訓であり、この自然作用を滞らせずに回る事が正常であって、過剰な美感や体裁に極度に拘る感性が失敗を認められずに蓋をする。

プラス性の評価構造を持たない減点主義を基軸にする文化に起こりがちな反応に見受けられ、ここから後ろ向きの発想が強まり、上げ足とりやダメ出し、詐欺や盗みといった二重人格が強まり、言論と腹の中が異なり陰湿な人間性が濃厚化する。

この体質を中軸に添えると、それが伝播し、物的力への過剰依存と現れ、単純物理性の秩序が支配的に成り、良質な前に在る発想や挑戦意欲が萎んで、閉鎖性の空間が生まれる。物事の重要性の取り方が歪み、端っこの事へ妙な拘りを生む等の、基軸の細い価値体系が創り上げられ、均質性への快適と許容性の狭い感覚が進行する。

対人的な窮屈さを強め、健康な発想が遠のき、外界に映るあらゆるものと距離を設け、対立的な構造が拡大する。利己的偏狭性の過剰な姿が、所々の細かな仕草や発言から察するに及び、性質の明瞭な異同が掴みだされる。こうした閉鎖性が経済産業の委縮や政治行政の形骸化に及び、過失を謙虚に認められない空のメンツに拘った異常な感性と及び、陰湿性が強まり空間を暗くさせる。

これらに改心して、過失を認められた事には少なからず前進性の印象が作られ、責めるばかりではなく健康な一歩として捉え、その良質性を伸ばす向きのエネルギーを投じる事が相互の発展軌道を太める。失敗や過失に対して率直な謝罪を見せる事については、前向きの部分を残した調和の形成が適当な姿に成り、お互い様の感覚を備えた共存性が持続的な好循環への軌道を作る。

いつまでも過失を認められない人間には良質なエネルギーは集まらず、時が進む毎に、その事柄への意識が深まり、心身共に病的な状態が進行して、二次三次の悪性を作られる。

この負のスパイラルに陥らない清々しい潔さが、健康な文化のインフラとなり、過剰な美感に行き過ぎない善悪や正負という性質を持つ人間を直視する文化に健全な持続的発想が生まれる。

この論理を導出する根源焦点が自然の存在に成り、自然の生命を奪い人間の生命を存続する事へ対して少なからず罪悪感を抱ける感性が要り、現代の人工化されて物事が届く流通形態から野性的生身の感覚が弱まり、生き物を殺している事への実感が離れて、妙な美感が作られる事への警鐘が鳴らされる。人間を過剰に美化した姿は醜悪そのものに成り、不健全な感性が進んで、失敗や過失への真摯な態度を避け、逃げ回る弱さが大きな惨事を招かれる。文化という根源からのフラットな感性が強調されて正常な感覚へと定期的に修復されて、大きな道を外さない歩みが持続する事に思われます。

思想の形成とは

領域の世界観が定まらないうちは、一人前という扱いは成されず、自己が身を置く領域について確たる持論を述べられて、定見を備えた主体性という認識が生まれる。個別事象を重ね定期的な集約の機会を持ち、次第に固定的な不動の見識が定まり、他者の小手先の批評や意見に振り回されない根本と基軸の備わった領域の概念が創り上げられる。そこから個別的な事象の配置が作られ、自己の主体性をもつ人格の実感が形成される。

経済とは、政治とは、文化とは、これらの関係性は?という社会観や、自然と社会、人間という根源観念についての見識が固まり、その枠組みという価値観が生まれて、堂々と人に述べられて一人前の主体性が確認される。個々の小さな体験の積み重ねと集約の反復という感覚体験を通した観念形成によって、質実の体内に取り込まれた考えが備わり、自然反応的に個別の見解が現れる。それが、主義や思想という纏まりある行動動原理に及び、右往左往の少ない柱を備えた人間像と映し出される。

理念やビジョンと掲げる事と、実際上の姿に整合が高まり、この状態に信用や信頼という言葉が当てられる。人との異同が少なからず生まれ、ここは変えられない部分、幅が生まれる部分、柔軟に解釈する部分、といった程度差を持ち、人との相違に寛容なスタンスが生まれると同時に、芯となる部分を表す事に成る。

日本人という国籍上の形式と、過去の歴史から不動的な価値として連綿と続く部分が生まれ、その解釈や感度、割合、深さ等々の個人差が生まれるものの、一定の型枠について多くの人が良いや美と感じられる事柄は自然と身につけ実際上の感性と生き、違和感の少ない根源理性になり、表層の創造事物にこの要素が少なからず含まれて、空間の快適性を抱かれる事に思われます。

下限の善悪は特定空間に関わらず汎用的な事柄に成り、そして、前進的な創造という積極的な規定が創り出される。この間に、空間独自の共通的な感受性が配されるといった構成をとるのが、外側へ向けた発想や異同についての尊重ある構えにも思われます。

冒頭の領域についての持論とは、積極的な創造過程の中で創り上げられる事柄に成り、個々人の通られた道の相違から、多彩な感性が示される事に思います。自己を制御する体系が作られて、下限的な事がクリアーされて、まともな他者との建設的な意見交換が生まれ、その状態にないうちはそれに適する配置が生まれるのでしょう。

ただ金があるという物的依存の感性には、本来的な信頼が寄せられず、一貫性の在る自制を持つ主体性に、真の対話が創り出される。

8)文化概念の目的から目標への展開

主体性や独立概念の中身として人間観念の中枢に備わる根源性について取り上げました。物理性からの制約と対峙し根源理性に沿った中局の構造を志向し健康な感受性の維持と上昇発想を生む全体観と描き出されます。それに資する各種の多段的な指標が設けられ理念と実感の持続的循環により高次の世界を切り拓く道筋が現れます。在るべき主体性という理想と現実の人間の姿と理想への方法という3つの観点を備え活動の骨格を形成し根源の感受性を堅持して適正な調和の持続的な軌道が確立する。欲望と力と責任の均衡が標準の尺度になり他利を叶えて自利に回る向きにある事が責任不足へ及ばない発想を持続させ、真理の探究という長期や大局を視野に取り込んだ利益の高次な創造が意図されて調和を求める根源価値の実感が継続する。

社会の要路といった影響力の大きな配置を求めるのであれば尚更このような感覚が期待され、力の質量に応じた志が必須と課せられて平和への軌道が生み出される。盗みや詐欺に鈍感な感性は志どころか平準以下であり間違っても適格性があるとは言えないのでしょう。

この国の現状はご覧の通り、虫けらと恥知らずの政治家や行政、マスコミが多すぎるかに思います。これらに操られる周辺の人格の破綻した経済人という集団が無法地帯を作りだす。根源的な感受性の崩れた人間が中枢に備わるような状態は一刻も早く直すべきでしょう。盗みや詐欺が体質や秩序と固まり、文化水準の劣悪な姿からは良質な経済産業に及ばず、根元の腐りを取り除く事からの施策が必要であり現代の必須の書に思います。なぜ、安易に盗むのか? なぜ、金を払わないのか?馬鹿に力を持たせない文化が持続的成長に不可欠であり、ミクロの感性の可笑しな者は徹底して広く周知させ、事実上の自然淘汰を進める秩序の醸成がまずもって必要であり、他国の事を非難出来るような内実に無く、こんな国になぜなったのか、根源的な総括と抜本的な変化を要する時期に見受けられます。

世襲の悪しき面や、物理依存過多の感性が根元の腐りを増進させ、公明正大な健全性を阻害し、特異な感性を蔓延させる因果に映ります。この流れに同化する主体性の崩壊の連鎖が進み根源からの思索の弱い短期性の経済を優先させる面面とが、無法地帯を促進させお飾りの法治国家を作り観念と感覚の乖離した頭脳と感覚のバラバラな動きに至り心身の歪んだ姿と現れる。

この状態を映し上げるのに、纏まった根源からの思想体系が要り、確信的な納得感に及ぶ長期的な筋道を示す創造が生まれる。多くの良識を持つ人々に内在する欲望を観念と表し、認識を強める事へと連なるものと思います。健康な感性から正負の特定を鮮明に捉え、腐った人格を自覚させ潜在的顕在的な良質化への自然な本能からの改善への軌道を形成し、人々の健康な力を広げる一端に当該著作が有用に働きましたらこの上ない幸いです。

 

文化教育の重要点

文化教育の重要点

感覚と観念という身体と頭脳の作用は、他者との関係を想定すると感情の作用が入り、良質への志向と増悪への志向という心理作用から、認識や行為に反映される。このように映し出されるのが、人間世界の事実認識になり、生理的な感覚と心理的な作用とから事象が創り上げられる。自然的要素と人間的要素を包含した事実の規定であり、根源的なありのままに近い対象の姿が映し出される。

基本的に、個別的な心理作用については、第三者が介入する事には、不快性の感覚が生まれ、関わりの程度という利害関係や新密度によって、適正が判断される。この因果関係の実感の取り方に個別性が生まれ、一様に解釈する困難性が生まれる。このような認識の上で、良好な自然や人間との調和を意図する方式が編み出される。

両面を含んで事実という規定を取るか、生理上と心理上を区分して、事実と価値という規定を設けるか、その場合、生理と心理の境界には、どんな基準に相応しさが生まれるか、事象の因果関係の範囲と深さをどこまでとして、事実と特定するか、これらの一般則と個別解釈の程度をどのように設けるか、等々の観点が生まれる。

これが、「知ると作ると対話する」という基本動作における勘所であり、何を優先して、どのような規定を取るべきかという所に人間の根源的な価値観という普遍的な原理が現れる。生理的、物理的、心理的欲望に対しての結果現れる基本動作と言い換えられ、その反復的規則性に普遍性という原理が映し取られるという言い方にも、3つの領域の相関として実感が生まれる事かもしれません。この統合的な観点を持ち、その上に個別的領域の規定が設けられるか、或いは、個別的領域の分析と規定を持って、3つの相関の在るべき姿を組み上げるか等の思索を、文化活動を重ねる中で答えを導出するという到達点が浮かびます。

調和という観念と適正な調和という作り込みの観念という一般則と具体的な取り組みとの相違を理解し、後者の中に実感性の強い感受性が現れ人間を知り人間を作る事に及ぶ。机上的な観測と当事者性を持つ立場との相違が理解され、実社会に於いては後者の側で答えを見つける事が求められる。その最良性を導出する為の思索が当該領域の目標となり教育や活動の重点に置かれる。この事から目を背け特権的な意識や妙な美感を持ち、犯罪感覚が弱まる行為から平和が阻害され平等観念と逸れた意識を増進させうすら馬鹿が出現する。正負の側面を持つ人間という認識を掴み、当事者としての誠実な最良性を作る所に正しい対象との対峙が生まれ、歪んだ発想や逃げの姿に陥らない主体性を構築する事に自他への責任感覚を持つ調和が果たされる。

 

 

生産者の初心の持続性

私有という状態概念は人間世界における価値観であり、他人に支配される事無く自己の意思で所有する事物を管理使用できると規定される。私有している状態を明確に示す為に名称を付す事や、私有事物を実際に管理されている実情を表す等によって対抗力が生まれる。更に、客観的中立な立場を創りこれらの規定を整備し、主観的利害を含めずに、個別の私有状態を計りそれを認証する作用が設けられ、私有状態の公的な認知と及び、事物の支配利用権が強化される。資産等の保有や利用、売却を自己の意思のみで行え、安心感と自由の獲得が実現する。これが安定と自由、安全と成長や繁栄、制約と自由、静態と動態等の哲学的抽象性の高い概念における二項対置と両面の統合された個別具体的実感に及ぶ代表的な焦点に成り、私有や所有という私的権利の安定と自由な活用という状態が示される。

人のモノを奪う発想や盗む行為は、本来的、健全な生産や所有の経路の弱い生産者に現れ、自身のエネルギーの投下とそれに相応しい対価を適正に計りだす健全な感覚から離れ、安直な方法や奪う発想から、人のモノや時間やエネルギーを取り、その付加価値の転用や転売という中貫で糧を得る姿に成り、流通経路の多様な形成力やニーズと供給のマッチング作用、更に独自の企画提案力等が単なる中間搾取という認識から価値が付加され、一定の存在意義が認められる活動という認識が形成される。

中抜きや仲介という立場に、この付加価値生産性への認識が弱いと、ただの盗みと特定され、私有事物を奪う悪性と捉えられる。この状態にある流通者が意外に少なくないようにも思われます。悪意の強い騙しや人への良好な作用の提供力を持続的に磨き探求するエネルギーが弱いと、付加価値の実感を他者から認められず、無用な生産者となり、そればかりか迷惑な存在や被害を齎す社会的な不用者という認識が強まり、上述のような第三者を活用した私有の強化策等が生み出される。

この第三者という中立的な作用に於いても、私的欲望を含ませた利用の発想を強める向きに流れる第三者も散見され、自己の確立された原理とその客観適用力の弱い疑念が浮かび、ここにも本来的意義を損なう私欲性の高まりが現れ、準公共性や公共性を性格に持つべき立場の自己都合のよい権威の乱用や暴走と及ぶ事には、その存在意義を失い付加価値の歪んだ生産者と映し出される。

これらの根源には、原理創造力や付加価値形成力という技術の向上と社会的ニーズの収集と実現という基軸動態が備わり、この経路に対して、どんな付加価値を創り上げられるかに多くのエネルギーが投じられる。公共概念を規定するに際しては、「どんな付加価値か、どのような対象が想定されるのか、これらの活動の原資はどこにあるのか」等の観点を明瞭に示し、客観性や透明性に連なる運用が求められ、その公開性の程度の適正さを原資の提供者から常に監視を受け緊張が持続し、エネルギーの健康な投じ方へと反映される。

騙しや盗みという不快性の行為という実感に及ぶ事のない公平公正な発想と行為を作り、堂々と自己の意義を謳える事があって健康な心身の所在が実感される。組織の規模や知名度へ依存し、この初心となるべき生産者としての行為原則が弱まる事にはその状態を広く伝達して、良質な生産者へのエネルギーを集中させる事が、直接間接の健康な創造と秩序が向上させ、原理創造型の付加価値の増産される空間秩序へ連なり、その恩恵が循環され良い気道が太まり後ろ向きな阻害性が減少して建設的な発想へと意識が集中される。無形財生産という曖昧性には、こうした面が強調されて適正な創造活動の水準が守られる。

 

10)文化政策の要

他でもやってるから自分も良いのだ。という正当性の論理を取られる所に、自己不在の拝金主義や創造力の低下、人格の破綻という性質が現れる。特に犯罪行為という性格の事柄を、他でもやってるからという理由で自己肯定をする節に見受けられるモラルハザードには、間違っても大きな力を与えられず、少なくとも下限の制御感覚を有する事に、人間との対話や交流が叶い、関係形成の必須要件と浮かび上がる。

 この手の性格が少なくないのが実情のようであり、社会システム上の要路に配される人々に根源的な欠陥感覚が在るようでは、まともな秩序が作られるはずもなく、この面を直す事なしにはどんな創造行為にも正当性は与えられない。主体性や独立性という人間の根幹的性格の不在は深刻な人格破綻でありこの認識を強めるのが文化論という価値観から表現される。この焦点からの改革がマイナスをプラスに戻す正常化策と位置づけられ、個々人の付き合いから、教育の在り方や、市場の形成、制度への反映、システムの構築といった各所の健全性を図る観点と取り上げられ、現況の客観認識と改良への施策を進める事が優先度の高い根本の良質化に及ぶ。

 感受性の衰退→生産の規則性、自己尺度の弱さ、技術向上への熱を投じない、盗みに走る、軋轢への免疫低下、精神的なひ弱さ、横並び発想、村社会、根っこからの原理形成を高め、相対比較という容易な判断を減少される事。

マスコミ、行政に顕著な性格であり、需給構造の過保護という指摘に至っても致し方ないように思われます。一部の人間の性質である事と思いたいものでありますが、実態を調査して組織的な感覚に及ぶかの客観評価を第三者の立場から審査し、適当な人員配置や構造的な原因の改善という一連のプロジェクトを進行させて、広く社会へと報じる事が主要な健全化策と浮かび上がる。

この持続的な監視と測定の作用が果たす役割が、基盤の下落を防ぐ装置と備わり主体性が確保され、感受性の正常さを強要させる事も、程度に寄っては要るのでしょう。 

配置に求められる能力やシステム自体の適正な大きさへの変更という事から要件規定を導出し、実施状況の継続的な検証の仕組みを設けて、水準の維持と上昇へと連ねる事が文化向上策となり、対処という応急策をとると共に、長期スパンのシステム化が要るように思います。

レベルとしては、犯罪への着手の程度→原理創造力→主体性の確立度、という観点から現況が計られ人格と能力の形成プログラムを確立させる事。レベルに相応しい配置、異動。

こうした施策が良質な調和の形成や、平和を創り上げる具体的な取り組みに成り抽象原理の具現的変換による実現への軌道と現れる。