健康な動態循環

健康な動態循環

人間は太ると怠慢になり痩せている人々が台頭する。そして栄養を付け太ると、更に痩せている人にとって代わる。この規則性が大きな観点からの健全性循環と映し出されます。この動態原理がしっかり回る事が健康な感受性を不動とした物理性の調整反応に成り、心の持続の上に体が調整される人間界の浄化反応と備えられ、直線型の単純反応にない循環型の永続世界が導出される。このような示し方に人類史からの学びが集約され、普遍的原理という万人的不変の感受性と表されます。こうした大枠ビジョンの下に各種段階別の原理が創り出され、大枠の中での中枠、小枠のサイクルが回り多重層の円運動が重なり根幹原理を柱にした因果の規律が生み出される。

地球という外観や円運動、人間の生命等の生物の有限性を基礎にした永遠や無現への欲望や志向性に及び、創り上げられる循環世界と現れ、この感受性に即した原理に連なり根源的な法則性という性格で認識される。この流れに合った動きへと自然に収束するのが、根源性からの動態であり、この流れに沿った基礎反応を見せる事に適当な快適感が生み出される。力んだ発想や発言や行為とはこの原理に逆らう反応であり長くは続かず一過性の姿と認識される。

局所に偏して大きな流れを見失い、力んだ姿が各所に浮かび、やがてこの軌道へと帰るのが根源性への終着点になり、永続性を達する自然な感性へと浄化され生き物としての良心に沿った反応へと正される。

社会的な焦点に絞ると年代に寄って社会的諸条件や生物的な条件からの制約が生まれ、そこから欲望の変動が現れ規則性に反映し発想や思考や行為と現れる。終盤期には、純粋性の高い生物の良心へと回り、後の世代へ少しでも良質な永続性を叶えられるような発想に及んで、私欲のない判断や行為が現れるように見受けられます。

こうした大きな動態原理から見ると、個々人の意思は微々たる事であり、永年の時を経て作りだされた普遍的な感受性という大きな流れが根底にあって、各所の動きが統制される。小さい所で拘り思い悩みを抱えるものの、広く大きな視点に立てば余分な力みは減少され、過剰な欲望は適度なものへと収束し、自然体になって、プラス・マイナスの歪な反応は抑制される。力んだ感性は根源原理からは明瞭に違和感と映り内面の心理が表に現れる。見る人から見ると隠しきれない性格と映り小手先の装いは明瞭に感じられる。

恐らく、こんなような感性が年代と共に深まり、洗練した人間に及んで良質な種を残し、その性質が代々と引き継がれ、根源性という最も納得性の及ぶ流れ方へと収まる。

ここから見る各種事象への快不快感を自然に起こし、短絡的な打算に乗らない不動性が現れる。主体側の変容しづらい自我と自然反応のありのままの喜怒哀楽に健康な姿が生まれるように思います。

表層事物への固定概念が作られ、実際の変動している状態や根源的な観点を見失うと実際感覚と離れ、固定概念の中で思考が固まり、頭脳と体の歪みと現れ、自然体を外した欲望過多の状態が生まれる。余分な枝葉を落として幹や根を浮かび上がらせ、事柄の中心を抑えた創造に在って健康な調和に近づき、永続的循環世界への軌道が生まれるといった感じ方が作られます。

堂々とした文化

堂々とした文化 ( 同一化と差別化と健康な歩み )

感じ方を文字で表現する事は大変難しい事である。物事には快不快という二項での大別が現れ、そこから実際感覚を精緻に表す思索に及び、極端な第一印象や直感という事から丁寧な表し方を探し、そこに「割合」や「程度」という概念が生まれる。動的状態をみてそれを一つの事象と特定し知覚するのに名称が付され、一つの区切りが作られる。これを標準に、プラス・マイナスの変化を見つけ、基準と形容で誤差を示し感覚の微妙な姿が表される。

微妙な感覚の差が伝達の開きと現れ、そこに快不快の感覚が生まれ、自己と他者の感覚の不一致という程度が起こりこれをなるべく一致するような工夫が設けられる。こうした焦点が人間の初動的な面におかれ、感覚を表す各種型式の提起が成され、最良な方式の集約等を取って標準が作られる。この流れが同一化という欲望と充足の達成過程と描かれる。一方で、標準とは異なる差別化をとり、新しい発見や刺激を生むことで、優れた型式を作り上下感覚をもって、主導や支配したいという欲望が生まれる。少しでも人より多くの欲望と充足を実現したいという生存本能を根にした競争の心理が働く。同一化と差別化の感覚を併せ持ち、適度な動態を生みだす事が健康な感性でありこの過程に於いては堂々とした歩みを持つ事が望まれる。

盗みや詐欺という不快な手法を用いずに公明正大な態度に在って同一化や差別化への好感が備えられる。この大きな感覚が平等思想の中軸にありここを外す事のない堂々とした文化に長期の健全な感覚が作られる。このようなビジョンを達する為の型式の創造が人々の根源的なニーズにあり、それへの提案という性格を持った文化体系を示します。

文化推進整備策及び文化領域の確立

文化推進整備策及び文化領域の確立

こうした文化という性格を創り上げる実践的工程面での文脈を取り上げます。個人と集団という中でどこかの会社に属し就業規則に従うのは尤もな事である。その字面を見せられて、抽象度が高く感覚的場面の解釈に幅が生まれるようであれば字面だけでは判断に及ばず、書面の提示で判を付いたものの、運用状況で実際的な就業規則の実態が現れる。つまり、観念と感覚の実感に実態の就業規則があり、文字のみの段階で了解しても実際の解釈差が大きければ有効には作用しない。一定の期間を経ながら規則の内容と適用が吟味されて、不信が生まれると規則自体への忠誠は弱まり実態に即した基準での従い方が現れる。使用者と労働者の誠実な平等観念と感覚を作り込む姿勢に在って相互の良質な関係が生み出され、文章に判を付かせれば良いという発想に歪んだ精神が浮き彫りになる。共生感情を根に、信義誠実な態度を表しそこに躍動的な協働関係が生まれるという論理が示されます。

そして、会社の一員という立場と、需給関係を広く備えた生活者の性格を持つのが人々の実際的な実態であり、就業時間以外での生活者という立場の活動で収入を得る事に対して、事業者は何がしかの制限を課す事無くここは自由な領域として個人の人格を尊重する事が望ましいと考えます。このような社会秩序の一般化によって供給者と生活者の活動が生まれ、後者の個人的純粋な性格が保たれ文化活動が盛んになり、文化的利益に資する事に利益を感じる人々はそれへの対価を払い、生活の総合的な質の向上に寄与する。こうした領域を増進させ、個人的な活動を併存させる感受性の幅を持った秩序形成から豊かな精神性が作られ、供給事業内での活動を広く客観的に捉える作用にも及び、極端に偏った事業者の異質な性格は平準化され、二極化という格差の抑制等へ資する事かもしれません。労働組合という直接的な使用者との対峙とは異なり、純粋思想的な創造性にある文化活動の性格で捉えられ、供給者と需要者を客観視する生活者の割合を増やす事が、間接的に労使関係の良好性や需給構造での真価の深まりに繋がるといった想像が浮かびます。活動への原資を得られて持続的な文化活動になり供給者と需要者を含んで見る最良性のビジョンの創造と実際に及び良質な個人と社会の維持や成長が果たされる。社会人に成る前の感性的な教育と、社会人に於いての文化活動を断絶させずに、生活者の感性を養う領域の確立に経済と政治と文化という3要素のサイクルを定常化させ、経済へ偏した歪な成長構造への調整に働く。供給者側での一方的発想に寄らず、需要者の立場を包含した感性の成長が進み良質な需給構造が創り出される。

道徳の役割

道徳の役割

弁護士等や座学よりの学びを中心にされてきた人々と、感覚的に物事を創り上げてきた感性との相違は顕著に伺える。教科書に書いてある情報は二次的な事であり、それを読んで感覚の疑似的体験をされるのが、読書による作業であり、自身の直接的な感覚を経て文字に表す事とは明確に異なる。

過去の、他人の感覚の文字化を読み込む作業から、自身の生産的立ち位置で直面する事柄への材料として、未来の創造に役立て、そこで実際感覚の検証から二次情報の検証や発見で一次情報が生み出されるという両面の統合した工程が描き出される。

二次情報をそのまま保有し、自己の生産工程で活用しない状態では、実際感覚を取らない分、情報の解釈に差が生まれる。知の自己化がないままの二次情報の吸収で留まり、知っているという感覚が深まる事に、可笑しな感性が作られるように感じます。

これが「思いこみ」であり、実際の感覚を経たかの錯覚が増し、所謂頭でっかちが作られ、感覚を用いずバランスを崩した状態から、感受性の適正な姿と乖離した感性が生まれる。観測者と実務家とは、こうした点で体質や発想や感受性の質が異なり、自身による創り出す工程を重ねて生まれる知との違いが現れる。

管理型の仕事に就くまでの実際的な感覚工程を省略した職務領域の区分が生まれ、ホワイトカラーとブルーカラーとの感覚差が強まり、一貫的完結性を持つ多能工から部分的分業の協働生産へと及び現れる歪んだ面と映し出されます。

一次情報が下で在る事をどこか忘れたかの発想が、自己生産工程による知の自己化と離れ、頭脳の作業で留まり理解をしたという気に成る事の感性に、どこか健全な姿と異なる現代的な負の事象の根元の原因に捉えられ、感覚と頭脳の程良い循環から形成される感受性の相違へ連なり、歪んだ感性とそこから生まれる思考や行為の歪みと現れ、適当な外界との調和を崩す因果と映ります。

管理型志向の強まりは、この傾向の進行を強めた社会となり、体形の歪さと欲望の過剰さとなり、可笑しな正当性の論理を組まれ、適正調和を崩される。片手落ちの人間像を標準とした感覚が作られて一貫的完結性の人間像との異質さと現れる。

大量の二次情報と一次感覚の少なさというアンバランスは、生産的活動性を弱め、歪んだ感受性となり、健康像と乖離した感受性を備えられる。人間形成過程の良質な在り方を再考する必要性を抱かれる人々も少なくないかの想像が起こります。

こうした面が道徳とも密接に関わり、理想の人間像を背景にした個別教育プログラムが作られる。健康な人格の形成を目的にする教育における適正な創造工程が想定されて、良質な感受性が作られ教育の意義が向上する。過去よりの感性と未来型との志向性や、頭脳寄りと感覚寄りとの相違が、根源的な発想の異なりに及び、読んで学べと、やって学ぶという差が生じる。あまり法という曖昧な抽象原理に縛られて、自己の感性を窮屈にさせる事には良い感じは生まれず、法を自己正当化の道具に用いて優位性を作るという発想が浮かび、健康さに疑問が現れます。利益を作り利益を得るという生産の循環と異なり、利益を得るが先行し利益を提供しないという感度が、頭脳寄りの体質形成の負の部分と感じます。マスコミ、行政、政治家、弁護士という領域と、民間事業者という領域における差という大雑把な傾向則と感じられ、健康像については統一的な感性を揃える事が在って良質な感受性の厚みに連なり、ここに道徳の役割があるかに思います。

環境と人間

環境と人間

都市には、道路や鉄道が整備され、マンションや商業施設、オフィス施設となる高層ビル等が建設され、そこに入ると人間がやたらと小さい存在に感じられると同時に、その環境に適した型枠を自ら描き出し、それに沿った振る舞いを作られる。いつの間にかモデル像が描き出されて、上下左右の快適感覚が備わり、感性や発想、思考や行為へと連鎖し規則性が作られる。外界と主体との間で見る均衡感覚という焦点が生まれ、外界から大きな影響を受ける感性と外界へ大きな影響を与える感性か、同程度の作用を持つ均衡か等々の感性の相違が生まれる。

都市型の人間は都市施設から受ける影響が大きく人間を小さくさせる。地方型の環境は自然の中で包まれ人口化されていない環境との直接的対峙に在り感受性が溢れ、せせこましい発想から開放され人間自体に輝きが見られる。きっちりした規格を求める感性と発想の柔軟な既成型の知に縛られない感性とが、環境により影響されるか、感性が環境を作り出す。このような焦点を持ち、どんな欲望が生じるか、備えたいかを持って人間と環境を制御する思索が生まれる。

都市空間という面や道具の開発といったハードの面が、欲望や精神というソフトとの相互関係を持ち、人との関係形成の感度を創り上げ物性と理性の状態が現れる。言葉の作り方や用い方等に反映され、精緻さや機械的論理や情緒的表現等の感度に現れ需要の性格に及び生産の傾向というトレンドが生まれる。以上のように物性の感度はクリエィティブな創造性を萎ませ、情緒性は機械的論理を弱める関係性にも見受けられます。人間と空間、人口と自然、道具の特性等々の関係性を浮かび上がらせ人間と自然、人と人、個人と社会、使用者と労働者、行政と民間、高齢者と労働者層の良好な関係を創り上げる基本的視座が表される。

こうした概括観に対してどんな欲望からどこに焦点を定め、どのように持って行きたいかという人々の創造性が起こり方法が提起される。文化論の発想は大きな視野の中での部分という捉え方や、根源的な焦点に絞った普遍的・不変的な原理を表し大きな軌道の良好性へ関心が進み、全体安定性や健全な躍動性へのビジョンが作られ、感受性と感覚と頭脳の健全な健康体を基準にした応用の想像が生み出される。即効性の感度に健康体を標準にした一定の制御性を齎す作用が現れるかに思います。これらは平等感覚といった基礎的感受性に比重を持ち、その根源的な人間の性質を崩さない志向性が備わり出現する創造活動と言えるのかもしれません。都市環境に振り回されて人間側が弱まり、科学技術を用いるというよりも、科学技術に扱われる因果に及ぶ程、この基礎的感受性が脆弱になり異質な感性が進行して外界への力んだ姿と現れる。作ったものから作られる関係性を生み、主客転倒に及ばない調整感覚が人間の基礎的感受性に堅持されて適正調和が叶えられる。

積極的創造策と根源的感覚や感受性との相関を計り良好性を生むのに、利益と原理の概念から最良性が求められる所に、健康な心身という基礎的感受性による作用が現れる。物性や理性のいずれか一面の性格が進行する領域に見る正の面に、負の批評を与えて正の特性を弱めるよりも伸ばす感性にあって、全体としての次元が底上げされるビジョンを持つのが、寛容性と躍動性の概念から導出される。しかし、この根っこには基礎的感受性の所在が備わり良質な伸びと映し出され検証期間を経ながら調整作用が加えられる。これは、共生の概念から導出される。共生の概念が下地に備わり信義誠実な態度による自立と協調の良好な世界を意図した文化論と纏められます。こうした各種概念の解釈の差は、個々人の成長過程が基礎に成り、その一部として都市と地方の環境の差が起因し感度の相違を生むように映ります。これらの事が美性という概念で総合されます。今日的には、インターネットの世界が加速し時短感覚を促進する。リアルな感受性や世界観を小さく萎ませ感性の貧弱化に及ぶという負の面が浮かびます。

あらすじ

粗筋

理念とビジョンで領域が生まれ持続性の施策が展開される。ビジョンは技術と市場で表され需要者という限定性と生活者という要素が少なからず加わり、経済産業活動に政治行政という共通価値の因果を想定し、安定的な作用と健全な成長という欲望を抱くのが中長期の人間像を備えた重層性の構造と描かれます。

特定技術の作用に安定と健全を付加した軌道を持ち、各種改良や試行が繰り広げられ、実際の感覚や効用を判断するのに一定の時が要り、その検証を経ながら良質な創造事物への思索が重ねられる。

幾度もの検証過程を積み重ねられ、ごく当たり前の型式と浸透し、生活の一部として無くてはならい普遍性を帯びた性格に到達させる事が各領域の理念に含んで、共通的な秩序の厚みが生み出される。

生産事物に限定されず、法律や制度、有形無形の事物、思想等々の人間が生み出すあらゆる物事にこうした軌道の中に含まれて、磨きをかけられた良質性への探究が生み出される。こうしたビジョンで描かれるのが、文化という概念に価値を持つ人々の論理形成になり、一過性の欲望から耐久的な欲望の充足へと中長期に持続する提供事物へと行き渡る事が、真に人々の欲望を満たす不動的な感受性と充足に及び、付加価値の高い活動と認められる。

この過程で人間自体も成長し、その感性や行為に道徳というような模範的な好印象が浮かび上がり、自然と良いものには視線が送られ取り入れられる。

恐らくこのような感覚に違和感の少ない道徳観が生まれ、強要や一部の利益の獲得への犠牲的な操作に寄らない自然な感受性が進行すると思われます。観念先行か感覚先行かに関わらず、両者は同一の循環系に在り、幾多の検証を持ちながら次第に実際の質感が形成される。

平等思想の展開図という性格を柱にした道徳概念が作られます。道徳は自主内発性に核心がありこの性格を外さない概念の展開に在る事が人間性の実現という解釈に及びます。

そして、下限の制約と積極的創造と、両者を繋ぐ因果の想定や実感を考慮し、プラス要素の真価を高める思索が深められ、長期に渡る生産事物の型式が生まれ、文化への方法と備えられる。

前進の向きへと視線が定常的に備わり、予期せぬ下限への影響が生まれる事がある。という動態感を持つのが自然であり、下限の制約をはじめから超えるような行為は、健康な人間の姿にはなく文化の軌道と外れた負の存在という認識が固まる。この性格を持つ領域は価値がなくプラスの発想が常とされるのが自然でしょう。以上のような全体観を持つのが、日本文化原論の粗筋になります。

美感のあれこれ

 

美術や芸術という概念も、既成型の枠組みで固定化される必要はなく、自由に中身を感じ作る事が出来る。絵画や音楽、舞台演出、映画等々という世界ばかりになく、平等感覚の実現といった括りで、それに資する事は美術や芸術であるという規定があっても良く、何に美感を見るのか、快適感を抱くのか、その質や量や耐久性という観点で、自然に思い浮かぶ場面を想定する等、広く自由に概念と感覚を編成するのが、発見や創造の醍醐味であり、この焦点の当て方や作り方に、感受性の多様性が現れる。

一過性のショービジネスという華やかな世界観にあこがれ、美を感じるという感性が在る一方で、より耐久的、持続的な継続性を持つ型式という特性で見るのが文化という観念であり、この点が美術や芸術の既成概念に対しての相違の認識が作られます。

文化概念は、長期的反復の規則性として人々の自然反応に近い身近な型式であり、美や芸術という感じ方というより、空気のような無くてはならない真の価値という性格で捉えられる。その根源に、平等感覚があって各種事象が映し出され、快不快の感覚を抱き是正をしたい、向上させたいという反応が作られる。この理由の付かない自然反応が、ある意味で人間の最も美しい源泉の美を表し、美や芸術の概念が適合される。この角度で見る美が本来的なアートであり、健全な美の追求という描き方が生まれる。

どんな規定であっても自由であるという無限性の下に、各種の個性が尊重される事は言うまでもなく、本書の文化論における美感には、特別の一過性的なフレームに視線が行くよりも、日常性や長期性、実際感覚の性格で作られる美感となり、どこでも行われている一般生産的型式の中に美を感じる或いは創られる感性と描かれます。

どちらかというと一過性の外形美に行くほど、モラルの弱い政治家、マスコミみたいな性質が現れ、盗みを平気でやらかす馬鹿が生まれるのでしょう。目障りであり、これに不快が現れ、本書のような文化思想が作られます。

美性観

美性観

道徳、美術、芸術といった概念に共通項を与えるとすれば、感受性となり喜怒哀楽と置き換えられ、この感情が生まれるのは、平等という観念が尺度に成り、平等に対する誤差から感受性が生まれる。

自然や人との間で見る平等感覚に平静が生まれ、多い少ないという感覚が生まれるとそこに感受性が現れる。フラットな感性の持続とはこの平等性の維持にあり、これが次第に様々な固定概念の付加により様々な上下感覚を抱く事になる。特定尺度に対して共通の価値を抱かれる人々の間で、序列感覚の共通性が生み出される。

特定尺度の拡大的発想が生まれ尺度間の序列を作られその体系的概念が、纏まり在る世界観と形成され、大きな枠組みと個別の配置が生まれる。このフレームによって外界や他者への序列感覚を持ち評価が生まれる。

評価される側に在っては、特に評価を望む事や利害関係が強くなければ余計なお世話に成り、内政干渉というような心象が作られる。平等感覚の欠落はこの望まない評価や利害の無い状態にも関わらず、好き勝手は尺度から思い込みの激しさを持ち評論する感性と現れ、その行き過ぎた状態に傲慢さや偏狭性、物性感覚の強まり、外界への要望過多、自己認識の欠落等々のマイナス的な不快感が生み出される。

無限性を前提にある共通の価値尺度という限定によって、共通的な評価の感性が作られ、限定的共通の基準に対して、上下や強弱、優劣という比較の合理性が生まれる。

頭脳寄りの体質から飛び越えた感性が進行して、自身の価値観を相手方にも強要するかの態度に対して、所与的な感性に振り替える事がないと、迷惑で不快という認識が生まれる。学者や弁護士、政治家やマスコミ、商人等々に比較的顕著に見られる性質と感じます。一種の病気と捉えるのが多くの平等感覚を備えた感性と思われます。

基礎的な躾という範疇の事であり、各人の成長過程の相違から異同が作られ、健全な需給構造の中で異質な感性は削りだされ適正感覚へと修正される。この作用が自然に回る仕組みが重要であり、自主内発的か、人口的規制によって、公平公正な過不足の少ない状態への論理が組まれ異質さが平準化される。人々の本能的な欲望と備わり納得感の高まる平等感覚の実現へと作用する。こうした文脈が、価値観の根源を表し、その感性について、芸術や美術、道徳等の角度の異なった概念が創り出されるという見方にも、一定の共通性が現れるかに思われます。価値の根元は平等感覚となり適正調和という志向性が生じて各種施策が作られる。自他に対して、公平公正な尺度の形成と適用を成すのが、美性の反映でありこれが欠けると不快性が生まれる。美感の程度がこうして計られ平等感覚の異同が生まれる。「自他に対してフェアな態度を作る事が出来るか」

これが根源の感受性の性質と現れ大きく離れると交わりに及ばない。物性依存症とは美性の崩れた状態と言い換えられそれを回復するのに美術や芸術という固有領域の創造等に触れ健康な感受性に戻す事が見られる。美感の崩れは根源的土台の腐りを意味しその上に作られる発想や事物は歪んだ状態で現れる。

本物の美性の持ち主からは「その醜さは、どこからやってくるの」という素朴な問いかけが生まれる。

21世紀の道徳

21世紀の道徳

役職に就き「何事もなく穏便に」といった発想は、もはやマイナスの代名詞で在り、利己的な保身へ偏した社会悪という性質で特定される。衝突や軋轢へ過度に神経質な受動的体質と見做され、なんら自己の尺度が弱く、ビジョンの形成や保有の弱い場当たり的な振る舞いや回避的反応には、ポジションで与えられる権限の行使を取らない力の未利用という過不足を起こし、この不均衡に対する問題の特定を強調する時代認識に在る。

一昔前の消極的な姿勢による安定概念はもはや成り立たず、理念とビジョンと展開方式の持続的活動に在って健康体が維持されると見るのが適当な概念に在り、減点評価型から加点型に在るのが常識となり、批難や衝突に確たる自己の論理を示し、説得できる不動の理念形成が在って適切な配置が作られる。安定はおろか成長や繁栄等には到底及ばず、根源からの強い理念が形成されて、力の適正な行使が叶えられる。

怠け癖が保守的な発想で回り、過剰ストックがフローの良質性を阻害する不均衡に及ぶ因果で映り、向上心や好奇心が途絶え生命力の脆弱なエネルギーしか生み出さず、少々のイレギュラーに過敏反応を起こし、前進的な創造軌道の細い事では、付加価値が生まれない。
これを予防するのに、対立や衝突は常であるというサイクルを所与と持つ秩序形成が要り、「謙虚、寛容、対立、自制、循環」という有機性サイクルが表される。どっちつかずのいい所どりという拝金主義には人格が確認されず、この姿勢や態度にこそ根源的な病理が映り社会関係の歪みを増進される。和という概念の取り違いと見られる事象が散見され、保身や過度な自己愛が他利を作らず、都合のよい和の概念を適用される事に醜態的な感覚が浮かびます。

偽善感覚は醜さの象徴であり、良質な感受性の劣りから、エネルギーの現れ方に不健全な発想や向きが生まれ、過剰なストックや過保護な環境が、これらの性格を創り上げる。盗みや詐欺への厳しい対応を粛々と取れないひ弱なリーダーには、ポジションと力の行使のアンバランスとなり、責任放棄の役不足は機会損失や資源の有効利用に至らない無能力という判定が生まれる。

生滅概念と実際的な感覚の鈍感さは、間接的な二次三次の被害を齎す認識を強め、質実の取れた均衡への圧力を高める作用が必然と思います。この検証作用の強化が、文化という領域による健全性への営みであり、マイナスは除外しプラスを伸張させる自然本能と現れ、この感度を落とさない事が感受性の堅持となり、良質な機能が作りあげられる。社会的に重要な配置が特定され、そこでの実質的な役割を明瞭化しその到達点を鮮明に測定するシステムの厳格な様式が作られ適正均衡の概念が実現する。

堂々とした文化という旗印が掲げられ、歪んだエネルギーを削減し、健康なエネルギーを増産する観点からの施策が根源価値を表し、表層の事物を正しく計りだす感性の推進が長期の規則性と備えられる。本書の各種ビジョンから、病的な姿は鮮明に浮かび上がり適正な識別の判断を速められる事でしょう。こうした感受性の形成が21世紀の道徳の確立と見做される。わけのわからない理屈を並べれば、一発アウトの時代が進行している。

1)精神的軋轢への免疫低下現象

1)精神的軋轢への免疫低下現象

リアルな感覚と離れて、小手先の手法が多用される感性の進行が現代社会の問題になり、生身の生命的な接触と遠のき、道具に依存した人格の衰えが、安易な対人関係を創り上げる。目の前にして出来ない事を、裏でこそこそやる感受性の歪みが病的性質を深め陰湿なエネルギーの流れを作り出す。この精神的な面のひ弱な体質に不快が現れ、それへの対処や予防の施策を生み、健康な心身を創り上げる事が根源からの人間改造の焦点に定まります。

直接の衝突への免疫が落ち、間接的な手法を用いるアナログ面の衰退が問題を複雑化させる。率直な感受性を表さずに表裏の激しい二重人格が生まれ対人面の病気を作り出す。お金への執着がフローの良好性と離れ、人との距離が広がり、本音を見せずに見えない所で姑息な手法を用いる事に人格の欠陥が見受けられる。このような観点を問題とする事があらゆる不快事象の根におかれて抜本的な軌道修正への施策を投じる事が好循環への本格軌道を齎せる。

文化論という長期の良好な価値基盤を侵食する部分と捉えられ、健康像を標準に歪んだ性質の特定をとり、発生の原因を多角的に分析し、発想や行為の修正に繋げる研究と活動領域を形成する事に関心が生まれます。

広い観点で言えば、軍事的衝突から情報戦という手法に進む事へ焦点が及び、この性格は人間の歪みの程度を更に増進させ悪性のスパイラルを深められる。長期的根本性の観点から浮かぶ異常な性質であり、大きな問題認識を持つのが健全な感性による事象の取り上げ方と感じます。この認識に及ばず制御不能な体質と浸透して自覚も弱く、狂った感性への不快を持たない所まで相当深く入り込んだ現代の病と浮かび上がります。

人口化された利便性に慣れた体質が精神的な感覚を狂わす負の側面に真摯な対峙を持ち、人間側の健全な意思の形成を意識した良質化策を創る活動として文化論という着眼点が生まれます。この基盤研究へ一定の理解を遂げて事の本質を掴み、健全な軌道へ制御させる活動が必要に思います。一部の層に、物理依存型の対人形成について、病気の自覚のない所まで進行しているという認識に及びます。「理性的な対話を」等としばしば言われるもののより深刻なのは、この二重人格という根本的な性質の歪みに映ります。