文化論のはじまり

 

物質文明からの負の側面が力への依存症という発想や体質で現れる。人間の身体能力を超えた生産技術を追求して、道具が開発され、技術の向上による生産性の上昇を実現し、食料等の必要物資や気候からの不快の削減を果たし、安心安全への欲望が充足された。

物的欲望に対する力の上昇に対して、対人関係における倫理道徳の維持や上昇が責任感覚として内蔵されて、欲望と力と責任の均衡が果たされて健全な文化文明の成長と描き出される。

言い換えると健全な動機の下に力の開発と保有と利用を取る事が、積極的な創造の絶対則として固められなければ消極的な制約を超える事象が現れ、プラス面と同時にマイナスを生み、両面を総合した活動への評価によって安定と成長の適正な調和に及ぶ。

この不変的な原理と外れた感受性から人間の崩れが生まれ、力を使うに相応しくない発想や行為が生まれる事への適正対処が前進型の創造を停滞させない上での必須策になる。又は、適正な感受性を創り出す為の必須工程への視点を同時に備えて、形成過程と運用の事前型の高度化に及ぶ事が知恵の上昇と反映された姿として現れる。

このようなインフラが作用して守りと攻めの両輪が回り人間生活の健全な維持と向上が齎される。

こうした論理から、産業経済と政治行政の本質的に備わる作用が確認される。文化という純粋性の高い探究から人間生活における普遍的な原理の導出や検証が取られて、根元と基幹の狂わない確固とした軌道の制御が叶い、暴走への対処と予防と同時に良質な技術開発と利用の積極策が進められる。それがまた一定の検証期間を持ち人間の健全な感受性を壊すに至らないプラス作用の増進と見られればその規則性が持続し中長期に渡る文化という認識が創り上げられる。

初期に現れる健全な感受性による創り出す力と利用の関係と外れた悪用と見られる事象が、技術開発の健全な成長軌道の足枷を生み、原理と応用や原理の改善に負の作用を齎せる。この因子を取り除く事を同時に取り組まれて成長の促進が叶えられる。

悪用という行為は力を用いるという姿にはなく、力に振り回された力を保有するに足る倫理道徳の不足を意味し、技術と人間との不適正な調和関係と特定される。適正な感受性を作り出すには相応の感覚と感受性の体験工程が要り、頭脳ばかりで理解しても反応に現れない。人間側の生身の感受性が劣った状態で過剰な力を与えない事が普遍の原理として導出される。これが社会の自然律として確固と備わり人や自然との適正調和が叶えられる。

文化による検証と、その結果を産業経済、政治行政にフィードバックさせ、歪みを正す循環の恒常的な仕組みが欠かせず、これが在って永続的人間生活の可能性を下落させない基盤と備えられる。以上のように科学技術と倫理道徳の純粋性の高い普遍原理を追う立場を長期の規則性として備える事の意義と理解を促進させる重要性が現れます。

悪用行為の特定と、悪用に至る原因分析と、悪用への適正対処と予防の常態的な活動が必須と思われます。人が生み出すあらゆる創造が対象で在り、有形無形の生産事物、制度や規制、習慣や慣習といった観点から良質性を落とさない為の作用が欠かせない。本書の文化論は、対処策と同時に予防策の視点から人間像を形成します。

1)美の創造と測定

1)美の創造と測定

正負のバランス均衡に働くのが人々の自然律であり、マイナスとプラスの感度の取り方に個人差があり、そこに美感が示される。小さなゴミに過敏な反応を見せられるかといった直感的な事からより深みある物事の洞察で感じ取る美感により相互の割合と深さの調整を果たしプラマイゼロの状態に持って行こうとされる。なるべくプラス側を人様に見せてマイナスを伏せる反応が生まれる。そのギャップの激しさについて美感を問うのが文化感覚を備えられる美性となりこれを持って深みの程度が計られ奥行き感を備えた物事の認識が生まれる。この感覚がどうも弱ってきたかに見受けられます。言い換えると、こうした美性が付加価値の根に成り、物的感覚とは領域を異にする人々の振る舞いにおける快適感を表し、それに好感が生まれ情緒的な充実に御礼を回す事への感覚に至って美の実践者という調和性の深さと異同の検証が取られる。御礼の在り方が美感そのものでありこの行為の所在に客観性の高い美の測定が生まれる。

こうした行為を見る第三者が更に美を感じ取り、好感の連鎖として直接間接に御礼が回り、美しさの途絶えない空間秩序が強まると同時に醜さへの嗅覚が増し、美醜感覚は相関性で捉えられる。表面の美と実践されない姿のギャップで落胆的な醜さを起こし、それを見る第三者が醜さへの不快を抱くか、それとも自身の醜さへの肯定材料と用いるか、この反応が美醜を分ける境に成り、プラス・マイナスの軌道と強弱を齎せる。知名度や財力、生産力等から社会的に影響力を持つ主体に於いて、これらの美醜感覚の表し方が一つの基準に伝播する事からも、表に出してよいのは実質上の奥行きを備える美性の持ち主であり、裏の顔が余りに酷いような者を出して人々の模範と回すような事は避けねばならない。この重要な役割を担うのが、報道機関等のメディアであり、そこの美感が如何ほどかが問われる。こうした二重三重の美を計りだす視点を持ち、美の促進者か阻害者かを計る尺度の質が、情緒性の欲望を測定する付加価値と位置づけられる。物的作用への付加価値と共に、この性格の付加価値に対する感度の程が心身の豊かさと現れる。良い絵を見せてくれた事への御礼は一過性の欲望に留まらず、長い記憶に留まり耐久性の効用に及ぶ。これに付加価値を抱かない感性には人間の根源性に疑問符が浮かぶと言ってもよろしいかと思われます。感受性を萎ませる事のない良き御礼の連鎖を見せて良い絵の乗数的な拡大が生み出される。経済の根源原理に通じる事にも思われます。文化論の性格は方法の導出という行為性を含んで実感される美感の形成や実現と示されます。

健康な創造者

 

事実と価値という概念を区分ける事が人間の傲慢性を抑止し、感覚的な実感をありのまま認める事と、社会関係上の欲望とを切り分ける感性が、自然や人との真摯な対峙を表し、共生感情を根にした信義誠実な態度と言い換えられる。自他への客観認識を作る事の出来る感性の所在が確認され、この基本的なスタンスから健康な調和を作る躍動的な活動が生み出される。

人よりも優位に立ちたい、支配的な立場を守りたい、といった物的欲望への志向性が過ぎると、ありのままという作為性を持たずに知覚される事実への歪みが作られ、過剰に力んだ姿が明瞭に映し出される。

活用しているのに知らないふりを取り、自他を誤魔化し優位性を保ちたいという発想は、明らかに、自然や人との調和性を求める発想にはなく、事実を歪めた利己的欲望過多の性格を示し、それが社会システム上の大きな役割を期待される配置に居座っては良質な有機体の形成を阻害される。力と欲望の不均衡となり、権限の過剰な保有と責任感覚の弱さという客観認識が生まれ、これへの適正化を進める事が必然の流れとなる。

事実と価値という概念形成は、対象との良好な関係を創り上げる為に先人が創り上げられた知恵とも言え、多くの概念には何がしかの意図やきっかけがあり、それを掴んで用いるか、改良する際の動機が示されて、静態的な観念に動態性が宿り、活きた創造事物に及び、動の中の動に近づき、対象と溶け込んだ質の良い調和の実感が生まれる。

事実と価値を分断させ、統合への軌道を持ち、動の中の動へと近づいて、動静の一致という感覚に及ぶ。この過程で、価値も少しずつ変容し事実との循環で、事実と価値がピタリと合い実感が生まれる。

ビジョン形成と現状の認識を区分する事が自然や人との適正調和を創り上げる為の構えとされ、この構図に忠実な活動によって方法が生み出され、そこに付加価値が生まれる。事実と価値と方法の概念を持ち、循環させる活動に付加価値を生み続ける健康な感受性を備えた創造者の姿が現れる。

人格の根幹的な揺らぎ

5)人格の根幹的な揺らぎ

このような理想的な観念図との相関から浮かび上がる今日的な社会問題の視点を取り上げます。

サイバー犯罪が取り上げられない日はないほどに社会問題化している。個人情報を不正に入手して名簿屋などに販売するか、直接業者が買い取って自社製品の販路の拡大に繋げるか、論文内容を入手して知恵やノウハウを許可なく盗み用いるか、特定個人の考え方を観察し行動を予測して事前型の対処策を講じる等、パソコンとインターネットという道具を介した中での直接的な関わりのない者による不正介入と情報の盗みといった事象であり、情報技術を用いたまともな対人形成を行わない特異な感受性を持つ者による迷惑行為とでもいう規定が生まれる。

直接この行為に取り掛かるものと、間接的に依頼するものとが想定され、何れに於いても人格の欠陥による典型的な技術の悪用と思われます。

軍事的な科学技術の直接利用というこれまでの性質とは異なり、堂々と身元を明かして対立の手段に用いるものでなく、主体性を明かさずにこそこそと不正を働く所に特徴が現れ、寧ろ後者の側に質の悪さが感じられます。対人上の衝突を堂々と行う事はある意味で健康な関係形成の筋道で在り、正体を明かさずに迷惑を及ぼせるたちの悪い性質であり人間の根深い所に及んだ精神性の病理現象という捉え方が正しいように思います。

単なるコソ泥という扱いよりも、変質者や異常者という認識で捉え、社会公共的な観点からの深刻な人格問題と位置づけ、悪性の程度の認識を改めた対処策が相応しいように思います。堂々とした関係形成を出来ない姑息な手法を、これ以上進める事無くタガをはめる事が重要であり、精神面のひ弱さに起因する力の不正利用は、社会生活の根本的な健全性を狂わせるものであり、この認識を持った緊急対処策を必要にする事柄なのでしょう。

このような原因の捉え方から、各種の社会事象として問題視される事の根源的な意味合いが浮かび上がり、他の事象とも共通して備わる人間の根本や骨格形成上の歪みが顕著に表出しており、これらを生みだす原因の考察と改革を取るべき段階に感じられます。経済の上昇のみで賄えるものでもなく、社会システムの不均衡や、教育や文化という中長期性の悪性問題としての改革が必要に思います。

4)集団協働活動

4)集団協働活動

責任ある立場がみっともない振る舞いを取れば、その下に就くものは指示命令をまともに受けず事実上の組織体制は崩壊する。これが集団協働行為の原理に成り、信頼性の瓦解から集団の力は発揮されず、存在自体が悪性の影響と転化する。士気が下がるばかりか、恥の連鎖事象という二次三次の被害の拡大を齎しどこかで防ぐ役割が生まれて修正への兆しが生まれる。このような自然律が回って健康な心身が維持され、自浄作用が働かない原因を特定し的確な変化を投じて再生への道が進み、因果関係の最も本質的な事柄へと着手をして抜本的な刷新が生まれる。

この論理に於いて、文化論という根源性への問いは、正しく人間の欲望や体質、規則性への焦点を持ち、健康な心身という理想の人間像と現況の姿を比較して負の特定から改善案を導出し目標の実感点を設定して、事象の到達を図りだす行為に成り、物事の源泉からの改変による根本策という性格に在る。個々人の健全性を根にして、集団の在り方にも適用し、地域や国家、国際社会という広がりへと連鎖する。感覚的な所から対象範囲の広がりへ繋げるアプローチと、大枠の仕組みから改変を作るアプローチが生まれる。実際の進行には、全体観という観念図面が表され重層の工程を作り、感覚側との実感を経ながら観念図面の修正を繰り返し、しっくりくる人と仕組みの規則性へと及ばせるまでには相応の循環体験を重ねて、頭と体の有機性が作られる。観念図面の形成と感覚的な運用工程による実際感覚で、事実や価値を感じ取る活動と描き出される。健康像とそれを認識する実感規定と実感の事実認識で実態という方程式が描き出される。観念図面を考える事から、発表する段階、其々の議論を交わす段階、大凡の合意を取る段階、出来る所から実際に進める事という進行に在るのが実際の創造であり、頭と体を動かしながらピタリとくる感覚へと到達させる活動の基本形が示される。妙な局所の立場から作為的に流れを留めて、進行を停滞させる動きが生まれないように統括的に全体を見渡し、阻害因子への対処を取り進捗が図られる。その適正な判断と支持に力が備わるには純粋な理想図への忠実な姿が不可欠になり、堂々と不信を招かない透明性が求められる。みっともない人間像という認識に及べば力は離れて指示命令系統を失う。原理による納得感が基本に成って物事が進められ、物理性での強要に偏ると、根本からの自主的な力が生まれずに、受動的な相互対話による消極姿勢に陥り、分断感覚の下に形式上の進行が成される。指示命令と相互の納得感の検証が積み重なり、能動的・建設的なエネルギーが回る状態が主体性ある活動を生み、生身のエネルギーの持続性に及ぶ。物性の感度が進行して強要性が強まり活発なエネルギーを伏せる事へと陥るのは、人間との体験の少なさか、機械的な感受性の退化か、組織員の怠慢か、世界観の取り方の異同等々が浮かびます。

2)真理の道

 

絶対的な肯定感覚を抱ける世界観の描写に何者にも左右されないエネルギーが投じられる。自己の直接的な利益追求図面からはこの感覚は生まれず、社会奉仕性の図面と自己認識から生み出される方法論に、迷いの少ない真っ直ぐな反応が現れる。これを人間の根源性の高い観念で示すと、共生感情が根に成り信義誠実な態度が作られ、強い肯定的躍動のエネルギーを生む動線と生じて普遍性を伴う事象が生み出される。真理という感覚を掴むのはこの規則性の持続によって近づき、抜け道や横道に逸れないで進んだ過去の軌跡とそこでの失敗や成功の体験がエネルギー源となり、後ろめたさの無い歩みを積み上げた実績が自己への信用を創り上げ、未来への強い軌道を選び出し、その繰り返しから絶対性の肯定図面が体内に浸透し基軸の太い真理の世界を描き出される。安直な方法に逃げる感度に慣れて、楽な方を選ぶ規則性が常態化され自己に自信が積み上げられず、受動的な世渡り感覚が進む事には、真理を感じ取る嗅覚が壊れ物性の感度が浸透する。人間側の意思が痩せ細り、外界から支配される窮屈な感受性へ陥り心の豊かさが萎むように思います。こうして出来た体質を前提にして、対象を選び対象の事実が作られ、そこへの感度が生まれ方法をつくるという過程が現れる。知らず知らずのうちに、自然形成的な反応に及び、それについて正しいという体質からの肯定感に進む。文化論的には、逃げ癖や負け癖の姿と映り、健康な心身に在る姿と離れた人間という認識が生まれます。理想がどんどん下がり、現実への感度が萎み、活力の弱い思索や発想が生まれ積極的な本筋の軌道を外した創造工程に慣れ、それに満足する感性に及び創造のクオリティーが規格化され標準感覚が作られる。どれが正しい等と人様を評価出来るような事にもありませんが実態的な人間の姿としてこうした因果関係に映し出されます。社会環境という大きな支配的秩序が生まれ、その中に溶け込む場合と反発を生みだすべき所が現れ、あまりにも物性による人間性の崩れに及ぶような事には、然るべき反応を作り出して行きたいと思います。その理性的な判断の基準が文化論という形で作り込まれます。

創造のクオリティー

 

メーカーにおける物づくりの感性をベースに於いた創造観念を形成する事に、感覚と観念の離れない健全な感受性を持つ人間が生まれる。顧客の要望と供給側の生産能力とを計り、両者の需給を刷り合わせて製品とコストが設計され、「何を、いつまで、いくらで」という約束が生まれる。それを満たさなかった場合の損失への対処策までも含めて、内容が取りきめられる。

製品の構成は、素材からそれを加工した精製品、更に部品、高度な技術を持つ部品、部品の組み立て、といった加工度や特殊性能、点数の多少で示される。複雑な要素の構成で完成品とする場合には、いくつもの部品について、「何を、いつまでに、いくらで」という仕様書が複数出来上がり、部品を入手するタイミングも事前に計画されて、同時並行の全体工程として把握される。一つの部品の納期が遅れると他の作業が滞り全体の計画に影響して、最終完成品の納期が満たされずに約束を破る結果を生む。

このような生産感覚を無形の知的創出にも反映される事で、無形財の質や精度への感覚が生み出され、事実や価値、方法といった概念の厳密な規定に及び、責任意識の高い物事が生み出される。いくつもの工程からなる協働生産感覚の弱い、虫食いい的、場当たり的、無責任的な創造は、有形の生産事物の生産工程体験をベースの感覚として保有する程に予防され大きな図面とその実現工程の確かな運びへの意識が高まり協働生産性の感覚が内蔵される。一つの工程の停滞が全体へと波及し大きな損害を齎せる。システムと各所の工程と人の活動により、完成品を創り上げる協働作業の体験を経て無形品の創造へも良質な感覚が備えられる。生産の基本は、有形物を創り上げるメーカーでの生産工程に在り、ここを基礎にした創造活動である事が健全な感受性を作るのに適当に思います。断片性、静態認識、価値観の押しつけ、過剰な対象化、思い上がった犯罪への鈍感性等々の不快事象はこの感覚の弱さから生まれ、責任感覚の弱い、約束の鮮明でない、恣意的な行為が生み出され、粗雑な人間が生み出される。社会像や人間像という言わば大きなシステムの形成感覚は、物づくりの協働生産の感性を基礎にして、一つの工程の過失が他への損失を齎すという共生感情を作り、各人の責任感覚や工程へのプライドが培われる。個人化の進行やサービス経済化という事象の進行から、協働生産感覚が薄まり創り上げる物事や観念の空疎化や粗雑化を生み不快感が生み出される。言ったもの勝ち、言っただけ、一過性、表層的、外観的、内外の乖離、物性依存症等々の内実の弱まりや実際性の形骸化が進行する傾向には、犯罪感覚が弱まり程度の悪い世界観が作られる。

伝統的基盤の堅持

 

現代の日本社会に於いても人権感覚は当たり前の常識に映し出され、この点に於いては世界の常識と概ね整合感が生まれているように見受けられます。しかし一部の政治家や行政人に於いては未だこの感覚が脆弱であり民間の個人や法人の活動を軽視して思い込みの激しい傲慢な行為に感じる事も少なくない。家父長的な感性を全く否定する事もありませんが、盗みや詐欺、傷害といった大勢の意思として固められた下限の不快行為については、如何なる場合も超えてはならない制限であり、権力や財力に過度な依存と思われる意識から、これを安易に見失い盗み等に及ぶようでは何を目的にした活動であるのかに疑問符が浮かび上がる。公の利益等という曖昧な表現も現代の理性水準にあっては限定化され抽象原理と実際の行為の解釈や適用からどんな利益を意図した行為かを鮮明に描く必要が生まれる。しかしこの積極的な利益の生産を問う以前に下限の犯罪は無条件の制約と解釈するのが万人の感性に思われます。下限の制約と積極的な創造策とこの間に伝統的な感受性が備わり両面の因果の実感を取り全体的な世界観の描写が生まれる。積極策が必ずしも良い影響ばかりではなく、下限の行為を発生させる作用も少なからず抱き、両面への視線を持った前進性の施策を作るのが普遍的な人間の理性を示し、この基盤的感性が人々との共生感情の実感と映ります。下限の制約行為は、この全体観の中で映し出される事と因果関係の弱い暴走や気の狂いからの発生という見方が生まれますが、いずれにしても明瞭な一線を持つ不快事象はどんな因果や立場であろうとも超えてはならない不動の基準という解釈にあります。この感性が標準にも思われますが、違う感覚を抱く人もいるのかもしれません。私から見ると内向き体質から権力に依存した暴走行為であり、この性質を持つ者が実態的な性格を隠して表面を良く見せるような表現を取るようでは、尚更、日本の恥さらしという認識に及んでも致し方ないように思います。下限を超えて公益等という判断に及ぶ事はなく現代人には許容されないのでしょう。みっともない日本人を作る事無く、堂々とした文化基盤の強化が在って、イメージと実態の合う人格が示される。個々人のミクロ感覚を壊してはマクロの操作等を行う要件に無く、人格の欠いた積極的な創造策に正当性は与えられないとするのが現代の主流派に感じます。人権概念の専門家の意見も伺い適当な軌道を創る事が一人ひとりに課せられる責務に思われます。個人的な異質性で日本人の良識を下げる事無く、表面と実態の開かない伝統的に培われた優れた調和性を失う事のない健全な心身の持続に重要な価値観が抱かれます。

哲学観

 

哲学の指導者には、解釈の専門家と体系の形成者という2つの類型に大別され、各人が自主的に専門哲学者の体系に興味を持ち、その理解に有用な作用を齎せる専門家と、自身の感覚性の体験を根にして創り上げた体系を説明する専門家という区分が生まれる。

専門研究者という性格の哲学概念を頭脳的に深める事も、まったく無意味とは思いませんが、感覚工程を経ながら自身の体系を創り上げる事に実際的効用が生まれ、筋の良い根源観念を如何に少なく集約し、短い時間で読み込めて、感覚的に深い実感図面がイメージされるかに、この分野の優劣基準を備えて領域の方向性を定める事が、実社会への意義を齎せると感じられます。

このコンセプトに沿った哲学が『日本文化原論』であり、特定の哲学者の難解な表現の解釈に時間を充てるような事よりも、洗練された骨格概念と集約した体系を大づかみに捉え、生涯をかけて自らの体系を創り上げるスタンスを想定した哲学基礎教育として、講座を設ける事が、感覚体験と頭脳の程よい循環性に及び健康な感受性が創り出されると想定されます。

真理を意図して読解に時間を費やす事は、真理と離れた作用を齎し、幸福感や健康を意図して哲学を身につけるのであれば、最低下限の良質な根源的な筋道を入力し、体験型の原理創造に比重を取った活動性を持つ事で健全な心身が生み出される。

哲学という根源観念は、こうした想定の中で、体験と共に次第に深まりや完成度の上昇に及ばせる個々人の個別的納得感の形成に、良好な作用を齎せる為の必要最小限の観念として提供するのが、需要者にとっての真価に思えます。未来創造型の人間観に軸足を取った哲学観や教育観という方針で描かれます。