文化活動からの生産事物

4)文化活動からの生産事物(文化実践の工程)

事象の認識が取られそれへの批評を下し改善案を提案する。その実施と検証で一巡の生産活動が想定されます。この生産概念を標準として生産の質が計られる。

ざっと見ていると、マスコミの生産活動は、事象の認識と曖昧な尺度による批評という所で留まり、印象を述べられる程度の生産活動と見受けられ中途半端な心象形成を大きな電波に乗せて発せられる事がしばしば見受けられます。

標準的な生産概念についての認識が揃い、どこの範囲の生産を持ち、どんな効果を担うのか、更に求められるのか、この点が整理されて、良好な交通整理が生まれる。

批評行為の質の水準をどの程度に於くかを評価尺度の鮮明性から計りだされ、基準が述べられて、基準との相違に批評が生まれ、基準に達する為の方法論の提起と、それへの信憑性と実施及び検証によって批評の水準や優劣が付けられる。例えばこのような批評についての概念規定が設けられて、観測や批評への測定が生まれる。標準とする生産概念の相違が各種領域の活動に反映され、需給構造の特性と認識される。こうした認識の差が、各種の問題事象という認識に及ぶ事からも、自己生産規定を出来る限り示す事が置かれて、需給の健全な認識が作られる。有形物の生産者が持つ、生産概念を標準にして異同を示し、実感規定を設けるなどして、各種分野の微妙な認識差を示す事が適当に思われます。それに即したコスト計算が取られ、適正利益率が算定され各種業界の標準的な経営モデルが備わる。

各種業界における健全な水準となる実感規定に差が縮まり円滑な対話が進み文化基盤の良好性という認識が作られる。概念規定と適用に創造活動の背骨があり、この実感の差が市場の効果で埋まるような循環に在るのが適性に成り、寡占市場の弊害が感覚の相違と及ぶ事からも、こうした焦点と規定を進めて、平等思想の格差が是正され平準感覚の厚みが揃えられる。

力と責任の均衡へと改良され適正調和へ近づき、不快感の削減と快適性の増進が作られる。基準概念をどのように取るかが動力に成って理に叶った批評や創造が進行する。

以上の事から文化的生産の規定を取るならば、最大分母的な目的の創造という事から、基礎や柱となる基準概念の創造と適用に連ね、生産や創造、均衡、事実、価値、健全等の人間生活に於いて不動的な根源概念の明瞭化や納得性の向上を作り出し基準尺度と用いられ、良質な事象を創り上げる動力と作用させる活動といった面が浮かび上がります。

表現と内外認識

字は人を表す。字に限らず多くの表現は、表現者の心境を表し、どういう善悪像や美醜像を保有しているか、それに近づけるようなイメージで描き出される。同時に、他者の感性も少なからず想定して、強い印象や親近感や敵対感を意図する等、何がしかの未来形成的操作が含まれる。自身と他者の感性をどのような割合で構成し、表に示すか等々の焦点を持ち、内面を予測するなどして、外観から多くの生きた面を想像し実際の表現者との交流から、予測と実態との乖離や一致を窺い知る事でしょう。

基本形となる型式をどこに於き、それと外した冒険心等が現れ平準感と許容性の範囲が作られる。どこまで基準から崩すか、あまりに崩し過ぎては他者との接点が生み出されずそれを想定した勢いや強弱、繊細性等々を作る事になる。こうした表現一般における同一的な原理が見受けられ、表現者の人となりを掴む事に及び、外観と内面を合わせて知る事が、良好な人間形成に重要な視点と浮かび上がります。どんな志向性に在るか、どんな快不快感覚を持たれるか、どんな歩みを果たされてこられたか等々の過去と現在と未来の抱き方を伺い、自身の側を同様に掴み自他を見る自身という重層の認識構造が生まれて、客観的に主客を現象化して、思う事への施策が投じられる。

感覚的な所を冷静に頭脳的に整理した示し方に及び、これらを意識的か無意識のうちに身につけられ、対象との適当な関係を作り出す現場的な嗅覚が発達する。真摯な対象との対峙を重ね、よく伺い知ろうと対象との交流を果たされてこの面が育ち、外観からいくつもの内面性への予測が現れ、見え方や見える多少さとなり、同一の事柄においても人によって感じられる差が生まれ、それが事実認識の異同に現れる。現場感覚や感受性を重ねて観念的なフレームを作る事が実際性を良く表す事に連なり、ベースは感覚や感受性にある事が確認される。

これが育つ過程と次第に衰える過程が生まれ、鈍感な物的単純性の短変数に及ぶと、傲慢さや怠慢な態度と外界から映し出され、良質な調和形成の感度を崩した思考や行為になる事からも、感覚と感受性を用いた習慣の持続を成して、ミクロ的な感性が維持されて、健康な表現が生み出される。様々な個人差があり一様には示しきれないものの、基本に対して崩す幅があまりに離れない程度の制御感覚が創り上げられる。
人間の複雑で多様な感受性が機械的感度の進行から、内面の精神も単純化に及び、その感性で複雑な人間を察知できなくなり、この感覚差が広がって無意識のうちに深い溝を作り良好な調和形成と離れて単純な衝突が多産し、道具に頼った発想の体質が作られる。有限の生命というアナログ感と、リアルな感覚と離れるデジタル感とが併存し、あまりに後者の割合が増えると可笑しな精神性が生まれ、予測もつかない、思いもよらない崩し方への危惧が生まれる。

アート的、アナログ的な感受性の発育と持続を生む習慣や慣習、生産形態、需給構造がこうした面から取り上げられ表現特性の意義が生まれる。同じような人間に見えて実際は多彩な違いの認識が弱まり、見え方が貧困化する事には良い傾向に映らず、どこか可笑しな軌道と感じられる所に正常さの実感が生まれる。ストレスとは心理面と身体面との乖離した症状になり必ずしもマイナス的な事象とは限らず、健全な感性を基盤にして現れる自然反応とも伺えます。権力という人口的力と長く関わる事は異質性を深められ、期限を設ける等の工夫が必要に思います。力を利己的な面へ用いられ行政組織と同質化し、新鮮な感性を与えない事や、健康な立ち振る舞いが出来ないようでは役割に疑問が浮かぶ。こうした面からの教訓を活かす制度を進めるのが自然に思われます。

表現一般と文化創造

表現一般と文化創造

文字や映像に表す事は、感覚の見える化や欲望を示す事に成り、個別的な事象の積み重ねから規則性が浮かび上がり、そこに対象や主体の性格が認識される。個別からの集約によって本質というような変容しづらい中核的な要素が抽出され、物事への序列感覚や価値観の体系が見てとれる。

短期周期と中期や長期周期、空間範囲の広狭、実感に及ぶ程度という質感といった点に寄り、動作の認識区分をとり、無限的な事を限定して対象の現象化に及び、特定的な認識が表される。更に過去に生じた事か、未来に生じさせるべき事かの区分が生まれる。
過去からの学びと未来の志向性を持ち、長期周期で広い観点での規則性の表現を試みる事に文化という観念を取るのが本書の規定方法に成ります。

この表現から、認識や共感が強まると、個々の事象の捉え方や作り方に、反映されるという想定が生まれ、これを望む人に在っては、根源的な欲望と充足という創造事物への性格が与えられ、文化観念も多くの生産事物と同様に、ニーズと技術という構造に配される活動と規定される。有形であれ、無形であれ、何がしかの効用の実感が生まれれば、そこには意義が備わり、技術と社会性を帯びた活動の認識が生まれます。

観念表現が感覚事象を生み、それが観念と知覚されるサイクルの中で、感受性が起こり、欲望と充足の循環で感受性が検証され人間側を知る事になる。そしてどう在りたいかの欲望が描かれ、それに向けた感覚や観念が作られる。
こうした認識の下に、人々の潜在的顕在的な欲望を推察しながら自身の欲望充足へと繋げたいとする相互的な循環の性格を持つのが、執筆活動の意図する事であり人間生活上の理に叶った行為と思います。

こうした活動から生まれる表現を盗む行為は、人道に反し、道徳心の欠如した人間性と捉えられるのが自然になり、それへの適当な反応を作るのが文化活動の一部と浮かび上がります。人間の程度を下落させない基礎を弁えた感受性を備えさせる事が現代社会の優先度の高い施策に思います。程度の悪い文化に成らぬよう、確かな根源価値が確認され、更に上昇できるようにと、
多くの人は望まれる事でしょう。

健康な感受性から映る歪的事象

健康な感受性から映る歪的事象

政治屋やマスコミ同士のエゴの衝突で、空間秩序を乱すかの事は本末転倒であり、良質な尺度から個別事象の性格を捉え、事象発生者への適正な評価が積み上がり人々に記憶され、適当な所で賢明な態度が示される。

多くの人は、秩序変容の過渡期に膿を出し、良質な基準へと更新される中局的なプラス型の動きと見て右往左往のない各自の生産へと意識を傾注する事であると思われます。変に、どうでもよい良いような事を、大きく取り上げ力んだ感じ方に映るのが、正常な生産に在る人々からの感性であり、政治行政マスコミといった領域の刷新が進んで、落ち着いた環境に正常化すると経済面へのマイナス影響が減少し、良質な政治経済の循環が生まれる。

文化的な感性を備えた人々からは、物事の取捨選択の適正さが生まれる。短期から中長期というフレームの中で、個々の事象の重みがつけられ、良質と阻害性の事象を区分けされ、

個々人の利益を中心焦点に於いた生産へのエネルギーが常態する。

間接性の政策については、適度なウォッチをとり、エゴのぶつかりのような事は、バラエティーと区分して、バランス感覚の優れた状況認識を取られる。しかしあまり公金を用いて、遊んでるように映るとマイナスの心象が進み、「いい加減にしろ」いうような声も高まるのかもしれません。

どうでもよいような事象を取り上げる人々の感性に疑念が深まり、距離が遠のき良質なメディアや政治家へ関心が移行して淘汰が進む事でしょう。自分で自分の首を絞めているという客観的な認識が取られず、私的感受性の単純な衝突には、見ていてなんら得る事がなく、喜劇として各人の人間性を映し取るくらいに捉えられる。ただ、あまりも高いチケットに成らないような制御感覚を持ち、役者への注文を付ける事も要るのかもしれません。更に、これらの周りでちょろちょろ動き稼ぎにされる評論家といった心象も生まれるかもしれません。あまり文化的な面へのマイナスにならないような節度を持った振る舞いを、良識を備えられる人々は望まれるかに思います。選挙等で、これらの判断を冷静に取られる事でしょう。ちなみに、私の台本には書いてありません。

創造者像

4)創造者像

マインドとしては、強い立場には競争心を燃やし打ち負かしたいという野性の本能を少なからず抱き、既成の原理を超える原理創造の軌道に在る事がパワーの源泉となり、技術への純粋な探究心と合わせて人への意識も加わり上昇発想に在るのが緊張の糸を切らさずに回る動態と描かれます。このマインドが弱まると保守的な構えに陥り輝きが淀んでマイナスの発想に陥り、そこに過度な力みが現れ負のスパイラルを増進させる。

原理追求の姿勢が原理に対して謙虚な態度と成り、この評価感覚に真摯な対峙を持つ事が基準に対して自他を客観的に映し外界との真なる調和の軌道と現れる。技術力は社会の顕在的潜在的な要望に向けて発せられ、この筋道を直接の基軸にエネルギーの大半を投じる事が基本となり、外野と思われる発想の強い所からの刺激は、視界から外し真っ直ぐな前進をとり、良質な快適や不快と直面し課題を超え続ける中で、深さや広がりへの思索が及び因果の実感が増減し纏まった世界観が形成される。個別事象の積み重ねと所々の節目での集約と更新を持ち質の上昇と量の増加という抽象表現で活動が表されます。

纏まった世界観に文化観念が作られ、個々人の歩みからのオリジナルな部分と、上述のような歩みを重ねて出来る健全な人々に共通する部分が生まれ、根源的な原理と備わり同質的な感受性の厚みが生まれる。それが文化という変容しづらい根源価値となり、それと思われる感性を明示的に表し、価値への感覚が強まって良質な軌道の連鎖や加速、そして、継承と及び、文化の永続性へと生き続ける。

歴史家による記述と共に、理論家という性格の創造者が生まれ、良好な軌道に連なるであろう集約表現を構成し、万人に見えるように表して、異同感覚等の検証を取りながら、更に精度の良い理論へと書きうつし、未来を映すビジョンが作られる。総枠的な理論形成に対して、経済や産業、政治や行政、教育、或いは特定生産事物等の限定的、独特の観点を設け、領域の概念形成という活動が進み、総合的な哲学と専門的な分野の見識が合わさり、人間と技術が絡み合った感覚的な質感を持つ思想が生み出される。

各人にこのような歴史家と理論家と実務家という性格が含まれて創造者という総称がつけられ人間の生産的な側面が抽出されます。

たまにおべんちゃらを見せ相手の態度を伺い、相手がどういう調和感覚を持っているかを確認し腹の内を探り、次第に変容してゆく態度を感じながら、ここだという所で調和の新基軸が取られる。下に見えた時こそ下に構え、そっと欲求を提示するとスッーと通る事でしょう。但し、根っからの地主のボンボン体質は手の施しようがない。

健康な動態循環

健康な動態循環

人間は太ると怠慢になり痩せている人々が台頭する。そして栄養を付け太ると、更に痩せている人にとって代わる。この規則性が大きな観点からの健全性循環と映し出されます。この動態原理がしっかり回る事が健康な感受性を不動とした物理性の調整反応に成り、心の持続の上に体が調整される人間界の浄化反応と備えられ、直線型の単純反応にない循環型の永続世界が導出される。このような示し方に人類史からの学びが集約され、普遍的原理という万人的不変の感受性と表されます。こうした大枠ビジョンの下に各種段階別の原理が創り出され、大枠の中での中枠、小枠のサイクルが回り多重層の円運動が重なり根幹原理を柱にした因果の規律が生み出される。

地球という外観や円運動、人間の生命等の生物の有限性を基礎にした永遠や無現への欲望や志向性に及び、創り上げられる循環世界と現れ、この感受性に即した原理に連なり根源的な法則性という性格で認識される。この流れに合った動きへと自然に収束するのが、根源性からの動態であり、この流れに沿った基礎反応を見せる事に適当な快適感が生み出される。力んだ発想や発言や行為とはこの原理に逆らう反応であり長くは続かず一過性の姿と認識される。

局所に偏して大きな流れを見失い、力んだ姿が各所に浮かび、やがてこの軌道へと帰るのが根源性への終着点になり、永続性を達する自然な感性へと浄化され生き物としての良心に沿った反応へと正される。

社会的な焦点に絞ると年代に寄って社会的諸条件や生物的な条件からの制約が生まれ、そこから欲望の変動が現れ規則性に反映し発想や思考や行為と現れる。終盤期には、純粋性の高い生物の良心へと回り、後の世代へ少しでも良質な永続性を叶えられるような発想に及んで、私欲のない判断や行為が現れるように見受けられます。

こうした大きな動態原理から見ると、個々人の意思は微々たる事であり、永年の時を経て作りだされた普遍的な感受性という大きな流れが根底にあって、各所の動きが統制される。小さい所で拘り思い悩みを抱えるものの、広く大きな視点に立てば余分な力みは減少され、過剰な欲望は適度なものへと収束し、自然体になって、プラス・マイナスの歪な反応は抑制される。力んだ感性は根源原理からは明瞭に違和感と映り内面の心理が表に現れる。見る人から見ると隠しきれない性格と映り小手先の装いは明瞭に感じられる。

恐らく、こんなような感性が年代と共に深まり、洗練した人間に及んで良質な種を残し、その性質が代々と引き継がれ、根源性という最も納得性の及ぶ流れ方へと収まる。

ここから見る各種事象への快不快感を自然に起こし、短絡的な打算に乗らない不動性が現れる。主体側の変容しづらい自我と自然反応のありのままの喜怒哀楽に健康な姿が生まれるように思います。

表層事物への固定概念が作られ、実際の変動している状態や根源的な観点を見失うと実際感覚と離れ、固定概念の中で思考が固まり、頭脳と体の歪みと現れ、自然体を外した欲望過多の状態が生まれる。余分な枝葉を落として幹や根を浮かび上がらせ、事柄の中心を抑えた創造に在って健康な調和に近づき、永続的循環世界への軌道が生まれるといった感じ方が作られます。

堂々とした文化

堂々とした文化 ( 同一化と差別化と健康な歩み )

感じ方を文字で表現する事は大変難しい事である。物事には快不快という二項での大別が現れ、そこから実際感覚を精緻に表す思索に及び、極端な第一印象や直感という事から丁寧な表し方を探し、そこに「割合」や「程度」という概念が生まれる。動的状態をみてそれを一つの事象と特定し知覚するのに名称が付され、一つの区切りが作られる。これを標準に、プラス・マイナスの変化を見つけ、基準と形容で誤差を示し感覚の微妙な姿が表される。

微妙な感覚の差が伝達の開きと現れ、そこに快不快の感覚が生まれ、自己と他者の感覚の不一致という程度が起こりこれをなるべく一致するような工夫が設けられる。こうした焦点が人間の初動的な面におかれ、感覚を表す各種型式の提起が成され、最良な方式の集約等を取って標準が作られる。この流れが同一化という欲望と充足の達成過程と描かれる。一方で、標準とは異なる差別化をとり、新しい発見や刺激を生むことで、優れた型式を作り上下感覚をもって、主導や支配したいという欲望が生まれる。少しでも人より多くの欲望と充足を実現したいという生存本能を根にした競争の心理が働く。同一化と差別化の感覚を併せ持ち、適度な動態を生みだす事が健康な感性でありこの過程に於いては堂々とした歩みを持つ事が望まれる。

盗みや詐欺という不快な手法を用いずに公明正大な態度に在って同一化や差別化への好感が備えられる。この大きな感覚が平等思想の中軸にありここを外す事のない堂々とした文化に長期の健全な感覚が作られる。このようなビジョンを達する為の型式の創造が人々の根源的なニーズにあり、それへの提案という性格を持った文化体系を示します。

文化推進整備策及び文化領域の確立

文化推進整備策及び文化領域の確立

こうした文化という性格を創り上げる実践的工程面での文脈を取り上げます。個人と集団という中でどこかの会社に属し就業規則に従うのは尤もな事である。その字面を見せられて、抽象度が高く感覚的場面の解釈に幅が生まれるようであれば字面だけでは判断に及ばず、書面の提示で判を付いたものの、運用状況で実際的な就業規則の実態が現れる。つまり、観念と感覚の実感に実態の就業規則があり、文字のみの段階で了解しても実際の解釈差が大きければ有効には作用しない。一定の期間を経ながら規則の内容と適用が吟味されて、不信が生まれると規則自体への忠誠は弱まり実態に即した基準での従い方が現れる。使用者と労働者の誠実な平等観念と感覚を作り込む姿勢に在って相互の良質な関係が生み出され、文章に判を付かせれば良いという発想に歪んだ精神が浮き彫りになる。共生感情を根に、信義誠実な態度を表しそこに躍動的な協働関係が生まれるという論理が示されます。

そして、会社の一員という立場と、需給関係を広く備えた生活者の性格を持つのが人々の実際的な実態であり、就業時間以外での生活者という立場の活動で収入を得る事に対して、事業者は何がしかの制限を課す事無くここは自由な領域として個人の人格を尊重する事が望ましいと考えます。このような社会秩序の一般化によって供給者と生活者の活動が生まれ、後者の個人的純粋な性格が保たれ文化活動が盛んになり、文化的利益に資する事に利益を感じる人々はそれへの対価を払い、生活の総合的な質の向上に寄与する。こうした領域を増進させ、個人的な活動を併存させる感受性の幅を持った秩序形成から豊かな精神性が作られ、供給事業内での活動を広く客観的に捉える作用にも及び、極端に偏った事業者の異質な性格は平準化され、二極化という格差の抑制等へ資する事かもしれません。労働組合という直接的な使用者との対峙とは異なり、純粋思想的な創造性にある文化活動の性格で捉えられ、供給者と需要者を客観視する生活者の割合を増やす事が、間接的に労使関係の良好性や需給構造での真価の深まりに繋がるといった想像が浮かびます。活動への原資を得られて持続的な文化活動になり供給者と需要者を含んで見る最良性のビジョンの創造と実際に及び良質な個人と社会の維持や成長が果たされる。社会人に成る前の感性的な教育と、社会人に於いての文化活動を断絶させずに、生活者の感性を養う領域の確立に経済と政治と文化という3要素のサイクルを定常化させ、経済へ偏した歪な成長構造への調整に働く。供給者側での一方的発想に寄らず、需要者の立場を包含した感性の成長が進み良質な需給構造が創り出される。

道徳の役割

道徳の役割

弁護士等や座学よりの学びを中心にされてきた人々と、感覚的に物事を創り上げてきた感性との相違は顕著に伺える。教科書に書いてある情報は二次的な事であり、それを読んで感覚の疑似的体験をされるのが、読書による作業であり、自身の直接的な感覚を経て文字に表す事とは明確に異なる。

過去の、他人の感覚の文字化を読み込む作業から、自身の生産的立ち位置で直面する事柄への材料として、未来の創造に役立て、そこで実際感覚の検証から二次情報の検証や発見で一次情報が生み出されるという両面の統合した工程が描き出される。

二次情報をそのまま保有し、自己の生産工程で活用しない状態では、実際感覚を取らない分、情報の解釈に差が生まれる。知の自己化がないままの二次情報の吸収で留まり、知っているという感覚が深まる事に、可笑しな感性が作られるように感じます。

これが「思いこみ」であり、実際の感覚を経たかの錯覚が増し、所謂頭でっかちが作られ、感覚を用いずバランスを崩した状態から、感受性の適正な姿と乖離した感性が生まれる。観測者と実務家とは、こうした点で体質や発想や感受性の質が異なり、自身による創り出す工程を重ねて生まれる知との違いが現れる。

管理型の仕事に就くまでの実際的な感覚工程を省略した職務領域の区分が生まれ、ホワイトカラーとブルーカラーとの感覚差が強まり、一貫的完結性を持つ多能工から部分的分業の協働生産へと及び現れる歪んだ面と映し出されます。

一次情報が下で在る事をどこか忘れたかの発想が、自己生産工程による知の自己化と離れ、頭脳の作業で留まり理解をしたという気に成る事の感性に、どこか健全な姿と異なる現代的な負の事象の根元の原因に捉えられ、感覚と頭脳の程良い循環から形成される感受性の相違へ連なり、歪んだ感性とそこから生まれる思考や行為の歪みと現れ、適当な外界との調和を崩す因果と映ります。

管理型志向の強まりは、この傾向の進行を強めた社会となり、体形の歪さと欲望の過剰さとなり、可笑しな正当性の論理を組まれ、適正調和を崩される。片手落ちの人間像を標準とした感覚が作られて一貫的完結性の人間像との異質さと現れる。

大量の二次情報と一次感覚の少なさというアンバランスは、生産的活動性を弱め、歪んだ感受性となり、健康像と乖離した感受性を備えられる。人間形成過程の良質な在り方を再考する必要性を抱かれる人々も少なくないかの想像が起こります。

こうした面が道徳とも密接に関わり、理想の人間像を背景にした個別教育プログラムが作られる。健康な人格の形成を目的にする教育における適正な創造工程が想定されて、良質な感受性が作られ教育の意義が向上する。過去よりの感性と未来型との志向性や、頭脳寄りと感覚寄りとの相違が、根源的な発想の異なりに及び、読んで学べと、やって学ぶという差が生じる。あまり法という曖昧な抽象原理に縛られて、自己の感性を窮屈にさせる事には良い感じは生まれず、法を自己正当化の道具に用いて優位性を作るという発想が浮かび、健康さに疑問が現れます。利益を作り利益を得るという生産の循環と異なり、利益を得るが先行し利益を提供しないという感度が、頭脳寄りの体質形成の負の部分と感じます。マスコミ、行政、政治家、弁護士という領域と、民間事業者という領域における差という大雑把な傾向則と感じられ、健康像については統一的な感性を揃える事が在って良質な感受性の厚みに連なり、ここに道徳の役割があるかに思います。

環境と人間

環境と人間

都市には、道路や鉄道が整備され、マンションや商業施設、オフィス施設となる高層ビル等が建設され、そこに入ると人間がやたらと小さい存在に感じられると同時に、その環境に適した型枠を自ら描き出し、それに沿った振る舞いを作られる。いつの間にかモデル像が描き出されて、上下左右の快適感覚が備わり、感性や発想、思考や行為へと連鎖し規則性が作られる。外界と主体との間で見る均衡感覚という焦点が生まれ、外界から大きな影響を受ける感性と外界へ大きな影響を与える感性か、同程度の作用を持つ均衡か等々の感性の相違が生まれる。

都市型の人間は都市施設から受ける影響が大きく人間を小さくさせる。地方型の環境は自然の中で包まれ人口化されていない環境との直接的対峙に在り感受性が溢れ、せせこましい発想から開放され人間自体に輝きが見られる。きっちりした規格を求める感性と発想の柔軟な既成型の知に縛られない感性とが、環境により影響されるか、感性が環境を作り出す。このような焦点を持ち、どんな欲望が生じるか、備えたいかを持って人間と環境を制御する思索が生まれる。

都市空間という面や道具の開発といったハードの面が、欲望や精神というソフトとの相互関係を持ち、人との関係形成の感度を創り上げ物性と理性の状態が現れる。言葉の作り方や用い方等に反映され、精緻さや機械的論理や情緒的表現等の感度に現れ需要の性格に及び生産の傾向というトレンドが生まれる。以上のように物性の感度はクリエィティブな創造性を萎ませ、情緒性は機械的論理を弱める関係性にも見受けられます。人間と空間、人口と自然、道具の特性等々の関係性を浮かび上がらせ人間と自然、人と人、個人と社会、使用者と労働者、行政と民間、高齢者と労働者層の良好な関係を創り上げる基本的視座が表される。

こうした概括観に対してどんな欲望からどこに焦点を定め、どのように持って行きたいかという人々の創造性が起こり方法が提起される。文化論の発想は大きな視野の中での部分という捉え方や、根源的な焦点に絞った普遍的・不変的な原理を表し大きな軌道の良好性へ関心が進み、全体安定性や健全な躍動性へのビジョンが作られ、感受性と感覚と頭脳の健全な健康体を基準にした応用の想像が生み出される。即効性の感度に健康体を標準にした一定の制御性を齎す作用が現れるかに思います。これらは平等感覚といった基礎的感受性に比重を持ち、その根源的な人間の性質を崩さない志向性が備わり出現する創造活動と言えるのかもしれません。都市環境に振り回されて人間側が弱まり、科学技術を用いるというよりも、科学技術に扱われる因果に及ぶ程、この基礎的感受性が脆弱になり異質な感性が進行して外界への力んだ姿と現れる。作ったものから作られる関係性を生み、主客転倒に及ばない調整感覚が人間の基礎的感受性に堅持されて適正調和が叶えられる。

積極的創造策と根源的感覚や感受性との相関を計り良好性を生むのに、利益と原理の概念から最良性が求められる所に、健康な心身という基礎的感受性による作用が現れる。物性や理性のいずれか一面の性格が進行する領域に見る正の面に、負の批評を与えて正の特性を弱めるよりも伸ばす感性にあって、全体としての次元が底上げされるビジョンを持つのが、寛容性と躍動性の概念から導出される。しかし、この根っこには基礎的感受性の所在が備わり良質な伸びと映し出され検証期間を経ながら調整作用が加えられる。これは、共生の概念から導出される。共生の概念が下地に備わり信義誠実な態度による自立と協調の良好な世界を意図した文化論と纏められます。こうした各種概念の解釈の差は、個々人の成長過程が基礎に成り、その一部として都市と地方の環境の差が起因し感度の相違を生むように映ります。これらの事が美性という概念で総合されます。今日的には、インターネットの世界が加速し時短感覚を促進する。リアルな感受性や世界観を小さく萎ませ感性の貧弱化に及ぶという負の面が浮かびます。