ゴミはごみ

きたないやり方は、記憶の奥底に残り、決して消える事が無い。誰もが一度や二度は、このような体験を受け、苦々しい思いをされた事かもしれません。この性質の事柄は、理想論などで片付けられる事ではなく、同程度の事を味あわせるのが適当な調和形成であり正しい解決策に思います。

これに関係のない第三者が口を挟めるような事は無いのは言うまでも無く、「目には目を、歯には歯を」という言葉が思い起こされる。この自然律は、どこまでも変わる事が無く、法律等の範疇に無く、個々人の納得感で在り、理に叶った作法となり、とことん追い詰め回す事が、当事者のみならず、二次的被害の予防にも連なり、ある意味では責任であり、生かす価値のない者への適正な制裁は、正しい道である。社会システム上の模範であり、この根源的な面での覚悟が弱い者に、大きな責任等を預ける事は愚かな人間のやる事でありこの見極めが最優先事項と言ってもよろしいように思います。

この感覚が乏しく物性に縋ってプライドの欠片もなく、力にこびりつくように見受けられる者も少なくなく、道を外した犬ころのような姿という認識が正しく、健全な感性からは、目ざわり極まりなく、不快事象の代表例と浮かび上がる。この手の性格が文化システムを歪められ、自身で根源的な柱を築く事無く、容易な方に安易に逃げる体質に成り、村社会で固まり堂々とした振る舞いを作らずに、都合のよい拝金主義として明瞭に映し出される。

これらに直接関わらずとも、この影響が二次三次的な間接性と広がり、主体性の程度を著しく劣化させ空間の健全性を損ねられる。こうした事象を生みだす因果について、文化という観点からの分析や改善の施策を取り上げております。マスコミや政治、行政、財界人と広く各種領域にまたがり、共通して生まれる不快な面面であり、これをいい加減に抜本的な手法を投じて一掃する時期にも見受けられ、これを超えると良質な循環への速度が高まり快適性が上昇する。

この機運を高めて、共通的空間の基盤秩序へと作り出せる勢力が主導的な柱に備わり、そこから健全な政策や生産事物を生む因果に連なり、そして、人間自体の変容が加速する。こうした感性に在る人々との協働を出来る範囲で加わる意向にあります。文化論や活動という側面からの生産で尽力し、良質な世界の形成への一端を担えればと思います。

直接性の事から間接的に広がる事実を鑑みると、少なからずこうした志向を抱かれる人々も多くおられる事でしょう。社会形成の肝となる部分であり文化論としても主題に備えられる根源的な側面であり堂々とした文化基盤という理想形で描き出されます。

ゴミの自覚が弱く、人の世話をしているかのような愚かな振る舞いは、極めて不快な人間と映り、器にあった適正な配置へと異動させるのが正しい浄化反応であり、この感度を高めるのに根源からの思索をもつ文化論が有用に思います。

選挙という機会には、表面的な政策よりも、寧ろこの人間の質を選ぶといった点に重心を置き、絵に描いた事柄の実際上の運用への熱の入り方が問題であるという観点から質実の良い見極めが要る事でしょう。争点は「力と責任の均衡の実態化」であり、これまでの歩みという実績を評価の視点に持ち、それを証明できる材料を各自に提示させ、信憑性に及ぶかが、適正な選択過程のポイントに成り未来への予測が作られる。

直近でお粗末な姿を見せられた事は、人々の脳裏に奥深く刻まれており、小手先の雄弁を取られても、真剣に耳を傾けられる事は無いのでしょう。一つの看板の中にも程度差があるようで、個々人の性質をどれだけ見せられるか、根源的な性格の善し悪しから未来への期待値も含まれて、真に体を張った動きへの想定が生み出される。

3)3層の創造性と文化の立場

3)3層の創造性と文化の立場

このような概念設計という作用の意義を表す文脈を如何に取り上げます。

何がしかの尺度からマイナス性の指摘を表す事は、一見すると客観的な表現を与え、真実を提供する事の付加価値が作られるものの、表現自体が認識を強める作用を齎し、どこに立脚した評論行為かに着目が取られる。何がしかの尺度という基準の観念が過去の規則性に基づく現況の評価か、未来ビジョンに対しての現況の性格づけかに大別され、付加価値の程度という面で言うと、後者の評論に在って課題解決型の表現に及ぶ。評論にこの性格が含まれないものは、何を目的にした表現であるのか、表現活動自体の意義が不明となり責任感覚の脆弱性を感じられる。

表現が表現を生むという根源的な焦点への認識が取られないと、客観性というまやかしの事実概念による無責任な表現と及び、短史眼的な利己的自己宣伝という性格の活動と認識される。つまり、客観的な第三者といったあやふやな立場は、時流に即応的な受動的性格を表し、短絡的経済活動の様相を浮かび上がらせる。こうした意味から意図するビジョンを持たない評論行為には生産性が備わらず外界を乱す扇動者と見做される。

普遍的な観念の構築がビジョンになり、個別性に性格が付けられ、意図するビジョンへの誘導的な性格を持つのが表現者の真価を表し、事象の選択という段階に、既に表現者の意図が含み、純粋な客観性等という概念は実態的な感覚とは異なる。

従って、あらゆる創造は基準の上に企てが生まれ主観的な作業性に在り、どんな基準で在るのかを明瞭に示す事が誠実な表現活動と評される。これを曖昧にした安っぽい評論家が多産される事には原論空間のクオリティーを下げ虫食い型の生産性が強められる。このような構造を根源的なフレームから浮かび上がらせ、表現一般への良質性を意図するのが長期的規則性への研究領域になり、健全な人間像を基準にした哲学や道徳等として枠どられる。

直接の事象発生者から二次的評論活動が生まれ、更にこれらの適性を見て作りだす三次的評論という重層構造が現れる。又は、逆の流れから事象が生まれる事にも成り、其々に単独した性格を持ち相互的な作用をとる経路が生まれて、抽象度の異なる階層間の有機性に一定の効用が現れる。この形から各人が独自の性格を持つ事象発生者と捉えられる。つまり、観測や評論を表現する事は、それを受ける人が要ると当事者性を帯びた活動と認識される。観測者や評論家という概念の実際的な表し方と正しい認識が整理されて良質な活動意識が創り出される。

これらを総合した重層の表現で掴みだす事から、感覚と観念の繋がりを生み健全な活動が制御される。こうした立体感が明瞭化されて、各所の単独的且つ基本的な性格が捉えられ、同時に長期性の文化概念の創造やそれを尺度にした二次表現者や一次表現者への評論の意義が示され、それぞれが一次事象発生者という性格が起こり、責任ある創造者が生み出される。

横の直接的な連鎖性とは異なる縦の抽象的連鎖性という概念が生まれ、身体と頭脳の良好な働きへと連なり、健康な心身の達成への道が表される。一見すると抽象概念の創出には、不毛な印象が生まれる事に思われますが、以上のような構図によって一定の付加価値を謳う事に成ります。

健全な人間像の要

リアルな感覚と外れた職業や配置に要ると覚悟の弱い軽口が進むように見受けられます。特に大きな影響が想定される事に於いては、十分注意した方がいいように思われます。頭に偏した机上の作業に慣れて道具の活用が増加する事からの弊害が現れる。この辺りが今日的な負の事象という傾向に顕著であり、生身の感覚が鈍化して対人形成の粗雑感を作られる。目の前にして言えない事を文章で書き綴り過剰な表現に及ぶ事が対人関係の離れた頭脳寄りの規則性から生み出され問題を生じさせる根源的な原因と感じられます。

肉体的衝突の減少から生身の皮膚感が弱まって精神的な制御感覚を欠き頭脳的操作性が進行し安易な表現を生みだされる。過剰な道具や力に依存した感性に対してバランスの崩れと指摘され、感受性と感覚と頭脳の程良く回った状態を強調した健康像が示されます。物書きを生業にされる人々の異質性と浮かび対人的な感性を崩して軽々しい発言や下限の制約を超える事には相応の対処を取り、健康な感性へと修復させる必要が生まれる。この点を見過ごさずに人格形成の肝と備えた長期的普遍性と染み込ませて良質な文化が作られる。

言葉が達者て重みがなく覚悟も弱く、安易な行為に及ぶ事には気を付けた方がいいというのが健全な体質に在る人々の感性であり、一部の層で皮膚感を壊されていると伺えます。歪な体質への自覚を持って根源的自律心を備えた良好な言葉や行為が生み出される。道徳や教育にこうした人間像が描かれ、知育と体育と徳育が作られる。バランスの取れた成長に在って健康な成人に及び基礎感性が備えられる。頭脳の歪な発達から道具との関わりを増加させ、人との生身の接触が減少して神経質な反応が深まり極端な発想や言行を生み異質性と現れる。外観からは見えづらい性格であり普段おとなしい人が急変する事態を生じさせる。時間をかけて感覚と頭脳との程良い循環を重ねる事が要り、急に力の大きな配置に就かされて感覚と頭脳の乖離した感受性による不調和を拡大させられる。力の制御力が均衡の要に成り犯罪面と積極的創造とを両睨んだ判断や行為により調和の質へと反映される。

根本原理の形成には様々な体験工程を経て感覚と頭脳との有機的な感受性が作られこれを省いて頭脳に偏すると基盤感性が弱く過剰な神経質やポキンと折れやすい耐久力の弱さとなり原論ばかりが先行した異質性に及び外界との不調和を広げる。大きな争いの根源原因でありこれを見越した人間形成が強調される。制御された大胆さや表現と動物性の過剰な反応とは質が異なり三作用のバランスの整った形成過程の相違が重心を持った表現の質に現れる。物理型の感性と感受性寄りの感性という区分にも浮かび中心的な性質として把握される。このような側面が個別事象の置かれる動態の中で、ポピュリストや過度な利己性といった概念等で部分的に表現される。壁に何度も衝突しながら歩まれた過程と、とんとん拍子で進まれた人々との性格の違いに現れ感受性の広さや深さの違いが表現の質に現れる。

表面の肩書や根拠の弱い権威等に過信せず或いは多用せず、原理の創造と測定を確かな尺度で計りだす根源的な観念を備える事が、対象との調和形成の出発点になり、真摯な対峙と表されます。それには感覚と頭脳と感受性という視座をもって良質な在り方へと意識が注がれ制御される。現代の科学万能的傾向の物質文明からこれらの面が脆弱になり画一的感度が進行して偏狭性が高まる事へは豊かな感受性を萎ませる。基準像への思索を深めるのに文化論や文化活動といった根源性への問いが生まれ、不動的な支柱による創造や歩みが強められるものと思います。

日本文化の現状について

 

ご覧の通り幼稚なマスコミと政治家及びその周辺の財界人が困った美感をお持ちのようだ。というのが健康な心身を備えた人々の本心にも伺えます。あまり関わらず自身のペースで淡々とお仕事を進める事が適当であるというのが一定の検証結果と対処策であり、恐らくこうした自覚も強まるものと思われます。推進者側への過保護な規制は取り払われ、実質的、良質な感性へと向かわざるを得ない事でしょう。予想よりも低い文化水準に少々驚きで在りましたが良質な芽も見えずらい所で存在し次第に文化体系の浸透と共に取捨選択が進行して浄化反応が深まる事と思います。根本的な所の欠陥の改善には時間を要するものであり上の方から感度が変わり間にいる人々へと反映されるまでには長い目で見るよりなく、良質な美感を下にした物性型の力の推進で均衡感覚が進み正気を取り戻す事かと思われます。

トップの美感によってこれらの感度が反映される。その感覚差が如何ほどか、在る節目において良質な見識を持って意思表示を取る為の尺度に本書の文化論も少なからず有用な視座をご提供できるように思います。当方なりの文化という観点からの診断結果でありそんなに大きく外れたものではないように思われます。

平成26年11月6日

文化の一丁目一番地

発言から頭が物性原理で凝り固まった様子が伺える。価値の尺度が単純化され序列を作り、その背景図を前提にした論理が作られる。この背景図に良質な感性を描きだす事が要り文化体系とはそれを意図した創造に成る。人々の基礎はフラットな状態から出発し、何がしかの欲望の共通性が生まれ充足する手法に有効な合理性を作りだす。共通の欲望には、単純に物的感覚から欲しいと望む事意外に、不快な人格には関わりたくないという欲望も生まれる。後者の面がどこか忘れているかの傲慢な感性の持ち主の背景図は少々標準的なものとはかけ離れ、単純原理で何でも操作できる発想が濃厚に伺える。ここから万人共通の制約を飛び越え特権的な感性を露わにさせ他者の描く背景図を見ずに自身のみの一方的な概念を強められる。両者に備えられる根源基盤となる部分が、どんな状態の変化に際しても不動的に固められ、人間概念により不変性を保つ事で各人の根を共通にした異同感覚の尊重という構えが生まれる。最低下限の人間概念は少なからず必要になり如何なる諸条件が変化しようとも所与的一律の感度となる。

その優先度の高い事が身近な事象では「盗み」であり、相手方の意思を確認せずに、独り善がりの思い上がった行為をとる愚かな事象であり多くの人の感性であり根源基盤の中枢に占められる。この崩れは人間自体の崩壊を意味し無条件の制裁を与えて死守する事が絶対性の原理でありいかなる理由も正当化される事はない。この点が万人の背景図や根本図として固められ最低下限の文化図面に成りこれがクリアーされて理想の要素が加算される。前のめりに成って下限を守らず上位の発想を持つ事は本末転倒の姿であり「分を弁えろ」というのが文化人の資質であり「何様に成ったつもりだ」というのが文化図面の一丁目一番地に謳われる。これを崩さない事が人間の条件と考えます。

芸術や美術という観念も本筋から外した細分化により本質が歪められ意味の取り違いが進む事には人間の価値を損なわれる。価値の偏狭性から健康な軌道に亀裂を作り自主内発的主体性を破壊する。これ以上は相対性の事柄が多く、断言的或いは強要的な主張を取れば却って人間性の狂いに及び、真摯な対峙から相互的な共通欲望という実感を掴みながら相互尊重の構えを持ち共生や協働の関係が深化する。現代社会の物性型の進行に対して歯止めとなる根幹原理を強調して明瞭な線を引く事が重要に思います。異常さの自覚のない所にまで及んでいる人々も散見されはっきり明確に態度を示す事が相手方にとっても有意なのでしょう。本来的には言うまでもない事と思われますが、他律性の感度が進行して制御不能な姿に陥っている人も現れておりこの辺りに大局的な時代から映し出される負の性質が示されます。

掃除しろ

1)美感の維持と上昇

今日、ヘイトスピーチ等という事が問題に取り上げられている。これの本質的な点は、表現の汚さもさることながら、それを生みだした理由にも着目する事が必要であり、どちらかという重点は後者に当てられ、それに対して表現の適正を問うのが適当な筋道と現れる。どこか表面ばかりの実感で事柄の性格が付けられる事には真相を歪められ可笑しな感性が進行する。

犯罪を働いてその後の当たり前の手順はまず謝罪だ。同時に損害賠償、これ以外にない。関係が修復されるのは道理に沿った反応を見せてからであり勘違いをされない方がいい。一方向的要素が強い下限的制約を超えた者が行う当然の筋道は変わる事がない。相互的原因に於いては、一方的に頭を下げるような事はなく、何がしかの譲歩や折衷案を執り行いフラットな感情への修復が生まれる。

盗みという行為は一方向の犯罪であり、理由の如何をとる余地がない。鍵を閉めておかないのが悪い等という言い分を取るのであれば、頭が逝かれている異常者であり話にならない。社会的な地位等という事は個別的事象に在っては考慮外で在り、事実認定される範囲は直接的な不快行為で限定される。これに対して原理となる規定はいくつかに分けられ、直接的行為の実感に及ぶ規定と間接的な規定等という重層性を持って適用される。現在の物性型の体質は、この一個人としての健康な常識感覚を歪め、社会的地位や所得等という事に妙な依存を見せ、フラットな立場での当たり前の常識感覚を崩し力を暴走に用いられる傾向にある。偏狭な価値基準でごく当然に古くからの歴史の積み重ねで規定された特定行為類型をさも簡単に超える感覚に現れ、異常さに気づかない困った人間を創り上げる。伝統的な感性としての平等思想とその具体的な展開と表される力と責任の均衡という自律的な適用を持たない他律性の感度が進行し、力へ振り回された人間性の欠落した姿がしばしば見受けられる。この感受性が歪な精神性と認識され過失を働きながら相手方に原因を求めるような気違いのような論理を組んで正当性を示される。

こうした背景からも、根源的な人間の健康な在り方への思索やその像を明瞭化させ、異常な感性への抑止や予防を高める作用が求められる。根源的な価値とは万人的な感性を表し、一部の異質性を生じさせない為に長い時をかけて創り上げられた体内的な感覚であり、それを文字として明瞭化する事で共通的な認識を固めさせる。異常者にも解るように平準感性を明らかにして、二次三次的な付属要素を加える事無く、所与の基盤に対する直接の適用を取り人間の基盤が維持される。小学生並みの知性があれば誰でも当たり前に感じ取られるように、根源価値の認識が作られて付属的な事柄へ依存して、基準の適用を歪めない事が価値を重んじた理性の作り方に成り、物性の感度が進行してこれを歪める正当性の示し方は許される事はない。勘違いをせずに当たり前の道理を貫くのが人間の条件でありこれを固めるのが適当なのでしょう。一部の異常者の道理を進行させる事無く、歴史の重みを当たり前に持続させられて一人前と見做される。子供のような大人を増加させない事がインフラの一番の役割のはずが、逆のような事では目も当てられず常識を通せない子供とはまともな関係が進む事は無い。教育の失敗から出来そこないの大人が社会の要路に就くようでは、根源的な改革が求められるのでしょう。

このような性格に対して、ゴミやクズなどという表現が生まれる事には、そんなに違和感は生まれず、少なからずこうした映し方を取られる人もおられる事かもしれません。原理や尺度となる論理を示して実際事象を適用するという過程を踏むのが理性的な表現と成り、論理基盤を持たずに、荒っぽい表現を行うと理由や根拠が脆弱と映り、外界への不快性を与えられる。酷い表現かどうかは原理の内容や保有と適用の有無で判断され真価が付けられる。表面ばかりを整え内実が薄汚れているとなればこのほうが批難され実態を炙り出し真実を明瞭化させる事が重要に思われます。醜い者に光を照らす事無く炙りだすのが適当な用法でありあらゆる物事の源泉は美感に置かれこの感じ方がエネルギーに転化し人間や文化の中軸を創り上げる。生産者として或いは人間として最も優れた性質はこの自然本能的な美性と言えるのでしょう。

健全な文化基盤の堅持

人々には社会生活上、使用者、労働者、顧客、協力企業、株主、行政、地域住民、といった性格の異なる主体性を持ち、各種立場での適当な振る舞いを何がしかの尺度によって取られる。そこでの調和形成の在り方の善し悪しから、満足普通不満という感情を抱き、それに対して、どんな発想や嗜好、態度をとるかが、直接間接に影響を与える。悪い方の影響を齎すと、盗みや詐欺、傷害、殺人、といった下限の制約を超える事象が発生する。直接的な態度を作る各場面での尺度と、それを導出する二次的三次的な尺度の連鎖関係が生まれ、根源的な不動性を帯びた価値観が、文化観念という長期性の原理と位置づけられ、尺度や基準の重層的構造として知覚される。このような構造と関係の中で、持続的安定と繁栄の仕組みを構築するという発想が生み出される。

前向きな発想は、顧客を想定して技術を提供する関係であり、これが直接の関心に取られて、建設的な気持ちの流れが作られる。この関係性に正々堂々と立ち向かわれて、快適や不快を体験し、技術や社会関係の向上へとエネルギーを投じて、良質な人間の成長軌道の推進が成される。
これに直接関係ない者が、阻害的な発想や行いを取り、好循環の軌道を妨げられる。真摯な対象との対峙を取らずに邪な道に逃げて、気持ちの悪い気流を与え負の連鎖性を齎せる。これが、社会生活上の各種主体者における負の原因を起こす事象と成り、プラス型の前進発想に対してマイナス性の発想をもった不快事象を生み社会生活の良質性を損ねられる。

直接関係のない立場が、自身の顧客との建設的な対峙を持たずに、各種関係への横やり等を与えて、関係をかき乱して、何がしかの利益を奪うといった行為を生む。関係の良質性を意図して介入するに際しての要件が明瞭な良質化への基準の形成であり、この尺度から独自の公平公正な批評などを取り、適正な付加価値を生みだすという作用があって、間接的な立場からの意義が生まれる。この作用にない中途半端な批評というものが関係の歪みを生み迷惑な介入者と特定される。

基準尺度の形成とそれに忠実な適用を取り、判定の情報を公平公正に公開される事に在って批評や介入に一定の意義が備わり、恣意的な利己性を持って場当たりの態度を取られて他利の弱い自利へと流れ外界をかき乱す虫食い的生産者と見做される。このような事象が好循環を阻害する根源的な原因と思われます。
詐欺や盗みという性格の強い事象であって、建設的な利益を堂々と提供する道から外れて欺きの発想で他者へと介入して利益を奪う発想の強い性格と現れる。これに相当する個々の事象を明瞭に映し取り、広く公開して事前予防型の施策を投じる事も少なからず必要なのでしょう。

このような焦点を導出するのは、根源的な文化観念体系からに成り良質な普遍的原理というビジョンを描きだす事によって、その尺度を基準にした負の性格や原因として鮮明化される。基準尺度を下にして、マイナスは削減しプラスを増進する為の根源原理を固めて健康な軌道を強固に創り上げるのに、歴史の教訓等が生かされて普遍的な型枠に纏められ、平易に明瞭に表す事が有用な効果を齎せるものと思います。
物性依存型の体質や発想が、正面に向かわずに横道の手法に逃げられる。力と責任の過不足から肥満を直す試練が与えられ、健康な心身に戻る自然な浄化反応を社会の根源的な意思として固める事が、正を伸ばし負を削減する原理と作用する。この適正な循環をもった根本の良質性が太い幹を作り枝葉や花と実って正常な有機体を構成する。

以上のように、「社会概念、負の事象、明瞭な基準尺度の構築と適用、導出原理」という基軸論理を固める事によって人間の良質な背骨が創り上げられる。文化体系は根源の導出原理に位置づけられ、これが鮮明になる程に感覚的な個別場面にも反映されて、長い目で見る真価を外さない基準と判断へと及ぶ事に思います。歪んだ発想に毒される事のない健全な歩み方となる不動の原理を広く創り上げるといった志向性を持つ事によって文化観念の実際化に深く浸透する。

今日的には、サイバー犯罪という当事者性を明瞭にせずに、情報を盗み出す悪性の事象が多発しており、これへの深刻な対処を取る事が重要に思います。偏狭な価値観に留まった技術の悪用を進行させずに、堂々とした真摯な対象との対峙という文化基盤の下落を予防する施策が重要に思います。

主要成果物:統合ビジョン(3要素の循環世界)

5)主要成果物:統合ビジョン(3要素の循環世界)

法律か、物理力か、いずれによって統制させるかという両極端な発想には、良質な世界観が生まれず、これらを結ぶ論理形成から確かな全体図面が現れる。法律は観念、物理力は感覚と置き換えられ、両者を感受性という作用で制御させるのが健全な人間の創造になる。

法による支配や力による均衡という片面の世界に、力と責任の均衡という原理を志向する所に人間の感受性の所在が確認される。これが永遠の生命を望む根源的な欲望と充足の方法と固められる。物理という感覚を、頭脳的な操作で観念化し、人との関係性が想定されて、喜怒哀楽の感受性が含められる。人との関係性の基礎に、共生感情が備わる所に人間の中枢的な性格があり、その上で喜怒哀楽感を抱き一定の制御性を持つ感情の範囲が制御される。

怒りという感情も、根には共生感覚を持った上での範囲にとどめられ、下限的な不快を超えない範囲での感情を持ち、感覚と観念を作り出すのが、健康な人間の感受性と置かれて物理と観念の調整が果たされる。

共生感情の展開に、下限の制約と積極的な創造と、間の因果形成という3つの観点を持った全体図が示されて、生みだす事からの滅への配慮という感性が内蔵されて、共に生きるという姿が現れる。

この基本的フレームを持ち、個別の所で均衡感覚に対しての解釈のズレが生まれ、喜怒哀楽という感受性が現れる。マイナスとプラスの因果形成や下限行為の感度の異同が、質の異なる感受性と現れて、異同感覚を確認しながら、相互的に譲歩出来る所を探り、均衡感覚へと近づける意識に在って共生感情の実践とされる。

独自的な価値観と共に譲るべき所を探し、一方的なエゴを強める事無く、欲望に対して力と責任の均衡を基準とした調和を創り上げるのが、人間界の普遍則と描き出されます。こうした過程が、感覚と観念に対する感受性による調和を作り、統制を図る世界観と示され、物理や法という一面での統制による矛盾を良好に解決する道が描かれる。

多くを望むのであれば、それを叶える力が要り、力の行使に相応しい感受性が備わり、外界からの均衡感覚が確認されて物事の円滑な進行が生まれる。

この論理をベースにして、どこかに不足があれば、進行速度は停滞するという人々の心理作用が現れる。物性での強引な進行には、所々に無理が生まれ、負の事象が生み出される。それを見越して、徐々に要件を整えながら適度な進行速度を作り出す歩みに適正調和が現れる。このような論理を総称して、道徳と経済の融合、知行合一、心技体等と説明され、根源に感覚と観念と感受性、身体と頭脳と心という不動の構造と動態の在り方が示される。

過剰な欲望から歪んだ手法に着手されて、マイナス事象を生みだし、プラスとの相殺される結果となり、この経験の積み重ねから、過剰に力んだ施策を取らずに、自然体の創造に及ぶ事が快適な物事の運びとなり、このような全体観が行き渡る程に、幸福感の増進と不幸感の現象といった理念の実現へと近づくように思います。

この理想画に至るには衝突と緩和の繰り返しから、底の厚い感受性が形成され、感覚と観念の整合度に及び、一体性という実感が創り上げられる。フラットな感覚から真摯な対峙を持ち、正直な正々堂々とした誠実な衝突を生みだし、歪んだ姑息な手法による溝や罅を作らない事が同一の行動原理に備わって健全な軌道の前進性が確保される。法律と物理と感受性のトライアングルにより統制される世界に統合ビジョンが示されます。

ここでで示す「法律」とは、欲望とそれを充足する力と責任の均衡という関係性における責任を意味し、成文法等で

規定された法律に関わらず、それを含んで設けられる自主内発的な責任という広い意味の制約と捉える事に、主体的前進型の人間性が創り出される事に思います。この結果が感受性として現れ、真価の実感が生まれる。既成事実化という手法によって、正当性を増進させるかの歩みには共生感情の欠落や信義誠実な態度を外した歪んだ精神性が露わになり消える事のない禍根を残し、物性の欲望を制御できない不調和を齎せる。物理力に相応しい感受性の欠如と認識され人間に等しい適当な器に修正されて外界や自己との適正調和が果たされる。

 

 

 

文化活動からの生産事物

4)文化活動からの生産事物(文化実践の工程)

事象の認識が取られそれへの批評を下し改善案を提案する。その実施と検証で一巡の生産活動が想定されます。この生産概念を標準として生産の質が計られる。

ざっと見ていると、マスコミの生産活動は、事象の認識と曖昧な尺度による批評という所で留まり、印象を述べられる程度の生産活動と見受けられ中途半端な心象形成を大きな電波に乗せて発せられる事がしばしば見受けられます。

標準的な生産概念についての認識が揃い、どこの範囲の生産を持ち、どんな効果を担うのか、更に求められるのか、この点が整理されて、良好な交通整理が生まれる。

批評行為の質の水準をどの程度に於くかを評価尺度の鮮明性から計りだされ、基準が述べられて、基準との相違に批評が生まれ、基準に達する為の方法論の提起と、それへの信憑性と実施及び検証によって批評の水準や優劣が付けられる。例えばこのような批評についての概念規定が設けられて、観測や批評への測定が生まれる。標準とする生産概念の相違が各種領域の活動に反映され、需給構造の特性と認識される。こうした認識の差が、各種の問題事象という認識に及ぶ事からも、自己生産規定を出来る限り示す事が置かれて、需給の健全な認識が作られる。有形物の生産者が持つ、生産概念を標準にして異同を示し、実感規定を設けるなどして、各種分野の微妙な認識差を示す事が適当に思われます。それに即したコスト計算が取られ、適正利益率が算定され各種業界の標準的な経営モデルが備わる。

各種業界における健全な水準となる実感規定に差が縮まり円滑な対話が進み文化基盤の良好性という認識が作られる。概念規定と適用に創造活動の背骨があり、この実感の差が市場の効果で埋まるような循環に在るのが適性に成り、寡占市場の弊害が感覚の相違と及ぶ事からも、こうした焦点と規定を進めて、平等思想の格差が是正され平準感覚の厚みが揃えられる。

力と責任の均衡へと改良され適正調和へ近づき、不快感の削減と快適性の増進が作られる。基準概念をどのように取るかが動力に成って理に叶った批評や創造が進行する。

以上の事から文化的生産の規定を取るならば、最大分母的な目的の創造という事から、基礎や柱となる基準概念の創造と適用に連ね、生産や創造、均衡、事実、価値、健全等の人間生活に於いて不動的な根源概念の明瞭化や納得性の向上を作り出し基準尺度と用いられ、良質な事象を創り上げる動力と作用させる活動といった面が浮かび上がります。

表現と内外認識

字は人を表す。字に限らず多くの表現は、表現者の心境を表し、どういう善悪像や美醜像を保有しているか、それに近づけるようなイメージで描き出される。同時に、他者の感性も少なからず想定して、強い印象や親近感や敵対感を意図する等、何がしかの未来形成的操作が含まれる。自身と他者の感性をどのような割合で構成し、表に示すか等々の焦点を持ち、内面を予測するなどして、外観から多くの生きた面を想像し実際の表現者との交流から、予測と実態との乖離や一致を窺い知る事でしょう。

基本形となる型式をどこに於き、それと外した冒険心等が現れ平準感と許容性の範囲が作られる。どこまで基準から崩すか、あまりに崩し過ぎては他者との接点が生み出されずそれを想定した勢いや強弱、繊細性等々を作る事になる。こうした表現一般における同一的な原理が見受けられ、表現者の人となりを掴む事に及び、外観と内面を合わせて知る事が、良好な人間形成に重要な視点と浮かび上がります。どんな志向性に在るか、どんな快不快感覚を持たれるか、どんな歩みを果たされてこられたか等々の過去と現在と未来の抱き方を伺い、自身の側を同様に掴み自他を見る自身という重層の認識構造が生まれて、客観的に主客を現象化して、思う事への施策が投じられる。

感覚的な所を冷静に頭脳的に整理した示し方に及び、これらを意識的か無意識のうちに身につけられ、対象との適当な関係を作り出す現場的な嗅覚が発達する。真摯な対象との対峙を重ね、よく伺い知ろうと対象との交流を果たされてこの面が育ち、外観からいくつもの内面性への予測が現れ、見え方や見える多少さとなり、同一の事柄においても人によって感じられる差が生まれ、それが事実認識の異同に現れる。現場感覚や感受性を重ねて観念的なフレームを作る事が実際性を良く表す事に連なり、ベースは感覚や感受性にある事が確認される。

これが育つ過程と次第に衰える過程が生まれ、鈍感な物的単純性の短変数に及ぶと、傲慢さや怠慢な態度と外界から映し出され、良質な調和形成の感度を崩した思考や行為になる事からも、感覚と感受性を用いた習慣の持続を成して、ミクロ的な感性が維持されて、健康な表現が生み出される。様々な個人差があり一様には示しきれないものの、基本に対して崩す幅があまりに離れない程度の制御感覚が創り上げられる。
人間の複雑で多様な感受性が機械的感度の進行から、内面の精神も単純化に及び、その感性で複雑な人間を察知できなくなり、この感覚差が広がって無意識のうちに深い溝を作り良好な調和形成と離れて単純な衝突が多産し、道具に頼った発想の体質が作られる。有限の生命というアナログ感と、リアルな感覚と離れるデジタル感とが併存し、あまりに後者の割合が増えると可笑しな精神性が生まれ、予測もつかない、思いもよらない崩し方への危惧が生まれる。

アート的、アナログ的な感受性の発育と持続を生む習慣や慣習、生産形態、需給構造がこうした面から取り上げられ表現特性の意義が生まれる。同じような人間に見えて実際は多彩な違いの認識が弱まり、見え方が貧困化する事には良い傾向に映らず、どこか可笑しな軌道と感じられる所に正常さの実感が生まれる。ストレスとは心理面と身体面との乖離した症状になり必ずしもマイナス的な事象とは限らず、健全な感性を基盤にして現れる自然反応とも伺えます。権力という人口的力と長く関わる事は異質性を深められ、期限を設ける等の工夫が必要に思います。力を利己的な面へ用いられ行政組織と同質化し、新鮮な感性を与えない事や、健康な立ち振る舞いが出来ないようでは役割に疑問が浮かぶ。こうした面からの教訓を活かす制度を進めるのが自然に思われます。