主体性の表現

根本の感性を根にして個人や集団という単位での基本的な性格を表すのに、主体性という概念が用いられる。これがビジョンに向けた方法の初動的な観念と成り、この同一性がその後の工程での良好性を生み出さす。

一人前と称されるには、永年の時を経て感覚と感受性を経ながら形成される確固とした観念体系が備わり、その基準尺度に対する公平公正な適用の実感が生まれて質実の伴う主体性と判断される。この状態に在って外界へ対する評価にも筋道が通り他者へ向けた真摯な態度が表される。過剰な要望や我儘、恣意的な態度から生まれる評価とは峻別され不動的基準を有する一つの見識と捉えられる。

主体性の確立された人格であれば自論や自己紹介が整い、言葉や概念を持って外界への明示をする事にも自然な感性と受け止められる。過剰な売り込みのような力んだ姿に寄らない御案内であれば違和感は少なく不快感を作る事には及ばない。そして、より一歩進んだ今日的な態度は、この事自体が一つの責任感を示す行為と成り、一端の主体性を自負されるのであれば、自己の理論を堂々と掲げて名実ともに一貫性の備わる実態を見せ信用が生まれる。誤魔化しや逃げの態度に寄らない有言実行に確立された主体性が映し出される。

他者や外界へ対して何がしかの注文を付けるに際しては主体性の形成度が評価への説得力や納得感に及び、実態的人間の状態に自他からの認識が先んじて評論への評価や信頼性に及び、頭ばかりでの論を展開されても体から示される質実が弱いと言葉自体への重みが備わらず真剣に傾聴されない。ここまで含んで完結性の高い真価が計られ言行の一致、表裏の一致、質実の一致といった感覚と観念の実感を含む認識に健全な態度が表される。このような根源的原理を置いて各種の問題事象へ評価が加えられて平等思想に基づく真摯な対象との対峙と映し出される。

「憲法等に主体性を明示すべきか?」といった問いに対しては以上の論理からすれば自然にお示しする事が主体性を表す行為であり、これへの提案や批評を行える条件は体系を備える主体性と成る。対話は自己体系を提示し公平公正な適用にあって健全性が生まれ、対等に各々の尺度を有した主体性間の向上化という意見交換のような会話に及ぶ。これが外側との対話であって、内側に向けては在る程度の責任感覚から確かな尺度を明示する行為に及び、「こうだ」という自身の型枠を示し領域を先導する態度が示されここが弱いと形式的な肩書が宙に浮き真剣に耳を傾けられない。

「これに従うと、こう成るよ」という予めの原理と実際の積み重ねから指示命令という行為への真価が測定され一方向の態度に正当性が生まれる。「こう成るよ」という志向性への同感と「これに従うと」という手法の確かさが問われ逃げを慢性化する体質や能力が乏しいとこれが示されず人の前で表現をするに値せず当たり障りの良い表現で実質が空となる。「価値を押し付けるな」という態度は、確固とした体系を示しきれない言い訳や誤魔化しの態度に映しだされる。実質的な結果の積み上げによる価値の測定が先んじる。強要というかは別にして責任感から確たる型式を示すに及んで主導的立場の適当な態度が表される。

そして外側と内側の整合に内側の中枢的要素から生まれる全体的なビジョンが描き出され内外の一貫した原理が生まれる。責任感も能力も弱く原理の提示もなく良い所を盗む為に居座るかの管理者や社会システム上の重要なポジションの不適格な人員配置に陥る事の無い適正な判断が下されて健全な質実を伴う平等思想の実態化に至る。形式的な一人一票という平等概念が在る一方で、現実的実際的な欲望と力と責任の均衡で見る平等概念が、生きた人々の皮膚感における公平公正性を作り上げる。法と実際でいえば後者に実がありこれを作るのに前者の形式が方法と備えられ、法が目的化しては歪な感性を作られる。