平和学の根幹

平和学という漠然とした領域概念の根幹部分に相当する知的体系となるのが、本書における健康概念であり、事実や価値、活動、という人々の基幹動態基盤の確たる認識を形成する事が適正な人間関係の基礎となり、それが調和や平和の礎を創り上げる。

この基盤となる知的体系を感覚的な感性に浸透する事が領域の目標に掲げられ、ただ知識を一時的に頭脳に入力し、机上でのアウトプットで習得をするような評価構造にはなく、活動工程を積み上げる中で次第に発想や思考や行為という全般に浸透し、体質となる所までを想定した教育概念の構成に実際的な効果測定が置かれて、心身の健康を形成するという認識の取り方に当該領域の本質が備わり、一時の学生としての学問というよりも生涯学習のスタンスを持って、基礎概念の入力と出力を身につける捉え方に適正な平和学の真義が齎される。

現代の問題は、頭脳の入力と出力に偏した作業で、測定を取られる安直な判断が生まれ、行為の習慣と浸透している状態を見て検証結果を捉える事が実態的な学問の有効性を実感するに及び、この視点の弱さから言行の整合ある活動が離れそこに倫理道徳の脆弱な実感が形成される。事実、価値、活動、健康という概念の確たる不動則を備える事がこの工程の初期におかれ、正しい認識の頭脳的な把握に及ぶには、感覚的工程体験とが合わさり循環される中で次第に質実の実感に及び、発想の生まれ方にも浸透する事によって実態の検証を持つという枠組みに健全な状態が映し出される。

このような方針や実感規定を念頭にした価値形成の刷新に良質な人間形成の道が生まれ、心技体の整合を作ることに重きを持たせる概念の強化が必要に思います。この常識感覚を強める事が本書の意図する肝要な部分に在り、日本文化原論の全体構成における根本に相当する哲学領域の考え方として説明されます。

つまり、各種のビジョンの表現という部分と、それらを達する上での基礎構造となる認識論や活動論という二層構造で大別され、後者の概念成しに、ビジョンのみという事はなく、言行の整合を前提にした活動プログラムとして纏められます。本書の各所に渡り、哲学の性質が浮かび、実感の概念に重きを置いた活動的な性格の観念である事が伝わる事に思われます。

実感の規定と実際の実感を取る厳密性に事実の概念が生まれ、この感度の強化によって活動性が強まり、同じ観念にあっても感じ方や捉え方の深さや質の相違が生まれる認識を持ち、規定と実感の拘りと行為に比重を持つ事が、頭脳寄りの認識と感覚での実感を繋げるポイントに成り、頭脳偏重からの弊害が予防され、そこに倫理道徳という感受性の実質的な実感が創り上げられ心身の健康体が実感される。

頭脳偏重に度々見られる表現が、「事実は○○です」という言い方を安直に用いる姿であり、正しくは「私の実感は○○です」「私は○○と考えます」となり、他者との異同から共通的実感部分を確認する事により、個別的事実と共通的事実が創り上げられる。無限性の概念や平等思想の弱まりは一方的な断定と強要性を強め、それが傲慢な欲望の現れに及び、各種の不快事象を出現させ調和の作り方を間違える。

こうした平和を阻害する因果を強調する事が文化論の視座に成り、二次情報を実感に多用する安直性への傾向等から、粗雑な事実の形成や対人上の亀裂を作り、その罅に対する早期の修復を避けて歪みが深まり、物理性で強要する哀れな発想に陥る事のない健康な心身の維持に目的が備わります。

一般化と個別性の取り扱いの丁寧な進行とも言い換えられ、一般則とその解釈の多様性という面への認識が弱く、利己的都合のよい解釈をそのまま適用する事からの弊害を肝に据えた真摯な対話から良質な調和への軌道が形成される。うすら馬鹿とは、この認識の弱さに適用される事に思います。 

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