世界的な常識

面子への拘りが生まれる事は、健康な活動を成されている人々に在っては自然な姿に思われます。しかし、過失を招き損失を与えているにもかかわらず、その事への真摯な態度を示す事が出来ない事については、大きな勘違いであり、傲慢な人間の顕著な例に思います。

どんな立ち位置にあっても、損失を与えればそれに対しての損害を賠償する事が、自然な振る舞いであり、面子へ拘りまともな感性を外して、独り善がりの態度でいる事の潔くない姿には、嫌悪感を超えて、失望感が生まれ、信頼性の棄損ばかりか、悪性を広げられる。

フラットな感受性を外す事からの負の影響は、失敗への率直な態度を見せられない歪んだ精神性に及び、ここに平和を阻害する人間の歪んだエゴの姿が生まれ、ひび割れや亀裂の深さに連なる。文化論が強調されるのは、こうした問題焦点を根源的な悪性と捉え、大きな負の事象を予防する為の人々の相応しい構えを示す事になり、利己的で一方的な強欲性に対して、理に叶った人間の初期的な心持を描き出し、健康な関係の持続的発展に繋げる為の営みとして描き出されます。

物理性への過度な依存からフラットな感受性を外して傲慢さが進行し、失敗や損害へ対する当たり前の償いが取られない事に、人道と乖離する醜態と映りだされ、そこに不快感を表すのが万人的な感性であり、この事へのズレを生まない事が、根源的な制約と備わり健全な秩序が堅持される。

いつの時代にあっても不動の価値になり、これを守れない事に対しては、看過する事無く、一切の妥協をする事無く、当たり前の態度を示す事が不可避とされる。一時の局所性で済まされる秩序ではなく、長い時をかけ創り上げられた価値については、万人的にその秩序を守るべきと課せられる事に在り、それが次代へ引き継がれ不変的な人間の意思と固まり、価値の持続性が果たされる。こうした事への規範感覚が緩み安易な犯罪が進み、例外を作りだす事によって価値の瓦解が起こり、なし崩しの空間秩序へ及ばせる事は一種の罪とも伺える事であり、根源的な不動性に対しては敏感な反応を創り上げる感受性が必然に思われます。

優先的な序列感の共通性として幅の生まれづらい事と捉えられ、経済的な取引のみでは済まされない価値の棄損という性格の事柄とを峻別できる感性に、人間の理性を重んじた姿が現れる。この強固な柱を少なからず作る所に主体性や独立性の概念が実感されて健康な心身を有する人間の姿と確認される。

堕落感とは、これを持たない感受性を指し、金で何でも済ませる発想や行為に対して当て嵌められる言葉であり、物的感性の慢性化した正しく頓珍漢な面子に拘る強欲性に在り、これと映る姿に対しては、鮮明にその実態を露わにさせ、悪性への対処や予防を講じる事が個々人に課せられた責務という認識を少なからず持つ所に、健康な感受性の所在が確認される。

こうした文脈が文化論の根源性の核心部分であり、このような認識を持たれた先人たちの意思を少なからず引き継ぐ事に、歴史や人類の一員という認識が形成される。事柄の重要性の認識の弱さや、逃げられるという甘い発想は一切通じる事無く代々に渡る汚点として人々の記憶の奥深くに刻まれる。根源価値への認識の弱さが強まる傾向には毅然とした態度で歯止めをかける事が絶対的な原理と置かれる。おそらくこれが世界的常識と思います。

文化の中枢観念

本書では、文化観念体系や詳述について取り上げます。それに先んじて文化の中枢部分の形成を以下に試みます。この面が良質な有機性サイクルを作る上での勘所に思います。体系の根幹という凝縮した性質を中枢に添えて、一つの有機体としての魂が注がれる。正負の人間像の認識から畏敬の念が生まれ自他との共存性へと意識が向かう所に他の動物と顕著に異なる理性をもつ人間の姿の実感が生まれます。

この共存性という在り方への適正感覚に調和や平和という均衡感覚の付け方が生まれ、そこに見る快適性が感受性の具体的な現れと成り、この点への異同感覚の共通性が高まる事に根源的感性の同一性が生まれ良好な関係への起点となる。年齢や性別、職業や所得、社会的地位という何がしかの意図的な観点をつける以前の所与的な状態でみる均衡感を維持できる感性が文化感覚と言い換えられ、この部分が少なからず堅持されて素の均衡性をもつ主体と知覚される。

つまり、諸条件という何がしかの意図を抱く以前の状態で見る感性が内蔵され、その状態での対象との同一感覚を持ち、自己と他者への同一的な公平感による振る舞いを取れる事がフラットな感性となり、この性質をどんな諸条件の変容が生まれても一定程度備えられる事に文化という根幹の性格が示される。経済性の概念を抱く以前の同質性概念という実態的感受性に、調和の初期状態が生まれ、そこで適用される規範が基礎的な不快行為を与えないという自他への制約になり、これを保てる所に理性や感受性の性質が現れる。

これが自制力という面になり、何者かから強制される事のない自身による均衡性への欲望となり、身を律する反応が成長過程からの躾などに起因し、どんな状態に至っても変わらない感覚として内蔵され、文化の程度という質の相違が実感される。

この良質性や程度差が、関係形成の初期的な面に配され、あまりにも違うという感覚に及ぶと本能的な拒否反応が生まれ、関係の深化には及ばない。つまり、自制力、自律心が核に成り、自発性や能動性の程度に現れ、独自性や主体性という姿に及び、独立的主体性という感覚が生まれる。

この人間の所与的側面に見る性能が、良質な調和を創る上での根源に成り、幼少期の時点から基礎反応として入力されて、社会人となってからも皮膚感覚に備えられる体質面での知覚に及ぶ。これを育てる事が自主内発性の義務や責任と課せられ、そこに快適感を抱く感性に、文化の内蔵される主体性の実感が現れる。言わば下限の制約となり根源理性を違和感なく自主的に求め、対象との交わりを行える為の準備工程と位置づけられる。少々固めの表現に成りますが、文化観念の中枢として相応しい捉え方に思います。

この直接的反応を示す事の繰り返しで、当たり前という感覚が作られ、間接的には各種の行儀作法を重んじられる型式が作られ、この文化感覚を鍛える場として取り上げられる。こうした面の強化策を少なからず導入し、基礎モラルの低下を予防する持続的な活動の必要性を感じられる人々も少なくないように思われます。知育に先んじてこの育成が共に備わり調和や平和の基盤が形成される。強要するより自然に望む感性が代々好き感受性として繋がれ、文化の良質性として認識される事かもしれません。開放的な欲望が生まれる一方で、引き締め的な欲望への志向性を持つ所に健康な感受性が作られ、耐久性を持つ持続的循環への骨格が形成され、適当な緊張と緩和の取り方や、主客への客観的な認識を生み、それに応じた反応が育ち、調和の上昇軌道が創り上げられる。

欲望と力と責任の均衡感覚の高まりに及んで、マクロ上のシステムへの適正化にも及ぶものと思います。現実的には、個々人に寄る取り組みというよりも全体での志向性になって達成される実感に思われます。