人々の発想や思考や行為はどんな歩み方をしてきたかに起因し生み出される。歩み方を見る観点として、物理よりか情緒よりの志向性か、他利的発想か自利的発想かの2つの主要な軸が現れ、前者の割合が後者へ影響する関係にも実感されます。
物理よりは比較的単純性の強い感覚的反応の算式を持ち答えを弾き出され、物事の因果の実感変数が少ない感性を主軸に備えられる。情緒性は感受性の変数を多く持ち、方程式は多角的、深耕的と言えるように思われます。
別言すると、局所的と大局的という対象範囲の取り方の異同が現れ、感覚的実感の感受性へ偏る事は局所へと意識が向かい、広い動態を掴まれずに部分最適性へと陥り、頭脳的集計は個別を集めて大きな観点からの動きを把握され直接感覚を抽象した事象の捉え方が作られる。こうした傾向則が確かに在り、両面に制御を与える根源の原理をどのように作るかに関心と探求の焦点が生まれる。
根源の人間観と、大局と局所を繋ぐ中間工程に、これらの矛盾を解決する鍵が生まれ、感覚と頭脳の作用を段階的な感受性を経る工程体験から、両面を良く回した感情が生まれ、物的側面からの欲望と心理的な側面とを調和させる感覚と頭脳の働きが創り上げられる。
この動静が標準に描かれ、現況の状態認識から、標準図へ向けた方法が創り上げられる。現況認識と標準図との乖離感覚が、熱の違いを生みだし、達成への速度感の相違に成り、施策の取り方への快適不快という感覚が生まれる。これらの根源に負的性格を内包する人間への認識度の相違が生まれ、そこから自然や人への発想や対峙の仕方が変わる。この点が物理と理性、自利と他利という二項概念を作る根本に成り、生命へ対する感じ方の変容が各種の行為に及び、人間が映し出される。
絶対的な不快事象の特定と、実感の程度も、この生命観に起因し、あってはいけない事という類型が感覚から観念となり、共通的な感覚や認識を強めて、それへの予防策が講じられる。快適性の事柄には幅が生まれ、不快性には限定的共通性が現れる。
この下限的不快事象を超えた状態で、快適性を意図して表す理念やビジョンには、正当な行いという共感性が生み出されず、万人的な絶対則を守る事が、高次の発想や活動への共感や協働性を強める土台に成り、複雑化した物事への密接な関係が形成される。これが欠けている者にあっては、前進性の活動に肯定感は与えられず、歪んだ手法や精神に在るものへの率直な反応が生まれ、ここに心理的な道理という人と人との関係を結ぶ基本的な快不快感が生まれる。
物理性の入手と利用に、下限的不快を超えた状態にあるならば、そこには一定の線を引き、短史眼的な便益を抑制するのが、心理面からの判断になり、この扱い方に、生理を超えた人間の特性が生まれ、道理を外した行いを予防する確たる秩序が堅持され、それによって安定と持続の基盤が確保され、不快を生じさせない欲望の充足が果たされる。
個々人の毅然とした振る舞いから、悪性の連鎖が防がれ、根源的な制約を重んじる基盤の強固な社会秩序が形成される。生理的不快という所与の悪性を防ぐ心理的欲望を指し示し、生理と心理の基本式が構成される。
「そこまでして物的豊かさを求めますか?」という一線が備わり、その境目の持ち方と、実際の行為に生理や心理、利己と他利の割合感覚、形成の姿が現れ、人間の本質的な姿の把握が生まれる。これについては、広く知らしめて、公平公正な事実の認識を形成し、実際上の秩序が回されて、相応しい人間社会が創り上げられる。
遠くで生じた不快事項について、身近に連鎖する事を予測した認識を持ち、他人事では済まされない当事者性の意識が現れ、個々の不快事象への正しい在り方を直接間接に実施して、一定の基盤を健全に確保するという取り組みに繋がる。
こうした共生感情が少なからず作られて、他者との同一尺度の下に自己が律せられ、悪性の出現を留める施策が生まれる。直接の加害者や犯罪への加担や共謀をされた人々は、こうした観点から相応しい認識が取られ、万人的価値への背信の姿を客観的に示し、それへの相応しい反応が生まれて、生理と心理の良好な関係が創り上げられる。制度上の制裁や処置へと進める以前の自主内発的な道徳の厚みや対象認識力の向上が、心理と生理の上昇を生み、人間の良質性を増進させる。
最大分母の集団的自衛という観念は、こうした論理で組み上げられ、下限の制約という絶対性の価値を揃えて、直接間接に守ろうとする行為を示し、下限の制約を超えた行為が各種の悪性の動源になり、二次三次の悪性を作りだす事実を捉え、軽視や看過する事のない意思を作る事が、基盤の下落を予防し、良質な先人の意思を引き継ぐ事になる。
自分さえ助かればという発想が、安易に犯罪へ加わる節操のない心理に進み、大きな被害の連鎖性を生みだし、健康な心身の疎外を作りだし、物理に偏した発想や生活習慣へと深まりを見せる。悪性は連鎖性を強く生み、瞬く間に空間の皮膚感に備わり、生理的感覚へと浸透する。これを心理的な意思で留める所に人間の特性が映し出されます。
以上のような観点から対象を映し上げる事も、新たな発見や意識を生みだす事かもしれません。心理面を含んだ事実認識とは正しく多様な捉え方が生まれ、生理面の事実とは異質の無限的な観点の創出と知覚の構造に在り、そこに各種の感性が現れいくつもの学びや発見、刺激の機会を齎せる。日頃、生理的事実という感覚を持つ事も実は心理面が多分に含まれた事実である事も少なくないかに思われます。哲学的な観点からはこの違いが意識され精緻な対象の映し取りが作られるかに思います。