無自覚の悪性

不慮の事故や真っ当な性格を持ち一生懸命に仕事をなされているにも拘らず、なかなか実りへ繋がらない人が現れ、「かわいそうに」等という自然な感受性が起こる事自体には健康な人間性が浮かべられる。こうした発見や観測に対して、それをどこかに伝え、伝え方が頓珍漢で却って対象へのマイナス事態の認識が強まり、良好性へ好転する力を萎ませる事態が生じる。悪気なく、善意の心から不慮の事態を改良したいと、事象を広く伝えて、大きな力を有する人々や多くの人へ周知させて、適正な計らいへと進むように、仮説を描いて、伝達するという方法を投じる事かもしれません。仮説に対して方法を投じ、意図した仮説へ近づかず、逆効果の負を招くという結末が生まれる。

自身で出来る範囲は事実を広く伝える事などと思い描かれ、事象への負の性格を付けながら、正への転換へ及ぶようにと、発想される事やもしれません。こうした行いにも、よくよく吟味して後先を考えないと、とんでもない奢った性質と逆作用を齎せる無能者と把握され、未成熟な人間性を覗かせる。

現実をよく知らない特殊業界に留まり、仮説と実際へ向けた的確な方法が起こらず、自己陶酔的な感性に嵌った自己の欲求ばかりを遂げたいとするエゴとも映し出され、人生経験の至らなさへと自覚が回って、慎重な事象の分析や、仮説の構成や妥当な方法を投じる能力が作られる。絵空事の美性を宿すほどに、自己への客観認識が図られず、反省に回らずに、特権意識を高めたり、頓珍漢な手法を投じて、悪性を深める醜態と至らぬように、適当な工程と体験を重ねて、適正な感性と能力が作り出される。

良い悪いという心象は、どんな世界観を保有するかにより起こり、そして、事象の特定とそれが発生した原因への分析をもって、どこに悪性の起点があり、改良すべきかの的確な判断に及ばせる筋道と思慮が及ばずに、むやみやたらと「かわいそう」等と情感が生まれ、安易な方法を投じる態度に、自己陶酔した性質や事象を益々悪性へ齎せる無能力に醜態が浮かべられる。

事実認識の深さや幅という観点と、そこでの因果関係と、理想となる世界観との比較から、事実認識への評価感覚が起こり、色が付いた事象の認識へと及ぶ。こうした工程への丁寧な考察や明示を省いて、単純な一過性の心象をもって、表現する行為などによって、歪んだ情報の伝達が広がり、誤解や誤認という意図しない情報の加工が生まれる。この事から迷惑を発生させる事への想定をもって、適当な態度を作り上げる感性に、地に着いた感性と体と頭を備える健全な人間性が掴みだされる。

「私は悪くないのよ」、「私は奇麗な感受性にあるのよ」「私は能力が高いのよ」等という自己陶酔性が強まるほどに、低能への無自覚に嵌り、薄らバカな実態を露にされる。これが意外に少なくなく、未成熟さや頓珍漢ぶりに、不健全な性質が明瞭に映り、出過ぎた表現への適正をもって、よく吟味視された思慮の下に、最良性を意図して実現へ及ぶ能力へと深まり適正化される。多様な工程と体験が弱く、物理依存型の独り善がりのスターを気取り、善人ぶる姿にアンバランで地から浮いた規則性に見る悪性が映り、体と心の豊富な体験をもって適当な頭が作られる。マスコミや学者、政治家という特殊な生産性に、このような実務者体験が劣ると悪性への無自覚な表現が多発して被害を拡大させる無能ぶりが顕在化し、これへの適当な予防が起こり健全性が向上する。無理な配置に縋りつき過剰な欲求を見せ、のめり込んだ方法を投じる醜態への認識が生まれて、適当な改善や配置転換へ及ばないといつまでも能力が向上せず、寡占構造からの弊害が是正されない。説教強盗という実態に及ばぬような健全性が求められる。ボンボンの成長過程という一見うらやましい心象を抱くものの、地に着く感性と能力が形成されず、社会から妙に孤立した存在へと至る事の不幸が映し出される。指導的立場に健全な体験が劣ると、過保護からの悪性を作り、当人につらい思いをさせる。金に縋りついた性格が強まり、寂しい性質へと至らぬような健全性概念の形成と浸透から適正化される。過保護の環境に慣れて、真面な生産性への圧力が加えられ、それへの無理な抵抗を見せるという衝突は、なるべく回避する事前型の施策に賢明さが映る。抽象概念の価値体系へ偏り、感覚面が弱いと歪みの激しい美性を宿し、外界からは偽善や醜態と実感される。「語学が堪能で、素晴らしい」等と短絡的な評価を起こすと、根本的な人間性への吟味が弱まり、お飾りの効用の弱い生産者が出現する。哲学や文化への視点が強められて、本質を誤る事のない人間性を作る発想に適正が浮かぶ。机上と実際工程との程よい循環をもって健全化される。こうした表現を求められる社会的ニーズをしばしば感じます。

3-8エネルギー循環と健全性

こうした物事を伺い作る骨格的な視座が設けられ、そして相応しいエネルギーの相互性への問いと探求を進め、健全な感性の維持と肉体の適用をもって、人間を作る方途と掲げられる。

力の制御は基準と適用において図られる。大きな物理力を保有し、その力の原理で物事を進める事には、大が小を押しつぶし、吸収する圧力が高められる。外界の意思を伺うことなく自己のみの欲求と力によって生存を図る態度には健全な人間とは映し出されず基準の形成と公平な適用をもって力の大小にかかわらず領域の持続的生存へ連なるビジョンをもって推進する外界の利益を含んだ基準の構築と運用が求められる。健全な欲望と力と責任の均衡的な態度と現れ単純物性の感覚に共存志向を含んだ心理的良性をもって人間世界の適正が映し出される。絵空事の基準に留まらず実際の運用が図られ自ら第三者からの検証が進められ質実を持つ頭と体の有機的な基準と適用の実態が作られ健康な感受性が実感される。予めの基準を形成し提示できない生産者においてはその範囲の力の保有が許容され過剰な力は削減し過不足の修正を進め健全な主体性へ及ぶ。このような論理を欠いた物理性の活用に暴走という言葉が当てられて相応しい制約を課し健全な人間性の維持の下に自由な発想が許容される。外界への利益と内部利益との適当な相関を発想して内外調和を見出そうとされる生産者にあって利他の実現と自利の獲得というエネルギーの好循環が叶う。時空を超えた普遍的原理へ高まり未来の良性を開く力と方向性に作用する。エネルギー循環と健全性の適用において持続的安定と成長のスパイラルが齎される。ストック過剰でフローの良性が下落する程に、単純物性の運用が強まり健康な人間性とは異質のエネルギーが発生し、暴力や盗みや詐欺という行為へ及び悪性が連鎖しプラス性の発想が収縮する。これを適正化する原理の確立が必須とされる。根源的な発想の善し悪しが問われ現実的な力の保有や利用の面に対峙し、そこで見る確かなあり方を求めて現況と理想と妥当な方法を発想する態度に根幹と芯の適正を持つ主体性が生まれる。この程度が需給相互から吟味されてクレームや満足という消費者的な態度や逆に適当な消費者や購買者の判定が取られ相互の基準に備え、動的基準と二次三次の基準の構図と適用が進められる。自然形成的な事実と予めの手続きによる基準の形成という過程から動的変化に照らした普遍原理の適用へ進んで人間の根源性が制御される。物理的力に心理的な力が備わって人間が抱く力の概念が形成される。これを満たす感性にあって文化基盤の実態が把握される。肥満者を野放しにすることのない的確な対処が遅れると悪性が広がり辺り一面物性での支配力が強まり基準と適用の公平公正性が劣り恣意的な利益の追求へ走る。集団の管理能力を超えた手足の出現は精神と肉体の分断症状と現れ能力を超えた過剰資源の保有と判定され主体性の適当な規模や質へ改めて健全化する。欲求と力と責任の均衡を目途にエネルギー循環の健全性が現れる。犯罪への自覚症状が起こらない盗み症の慢性化されたクズを基準に置くことなく体と頭と心の良く回る生活者の感性が中心に配される。盗まれる奴が悪い等と発想するようではクズの同類としか映らずインフラには適さない。普通の人々から見ると、盗みは、よほどの事がないと生まれないイレギュラーな事象であり感覚の慢性化した悪性は病理性の認識へ及ばない。強制する以外に直る見込みは薄いように思われます。ごく自然に内蔵される常識の範疇と思われます。

3-7諸学の根源-エネルギー循環

医学的な専門知見を伺うまでもなく人々は生活体験から自己の健康状態を掴み、悪性に陥る法則性を自己なりに分析し、原因の特定と対処や予防の智慧を作り出される。この根本原理が、「エネルギー循環の適正」と纏められ生物物理的性格から起こる栄養補給とエネルギーの発散に見る身体的良質性や、心理的な力の投入と生産事物の形成と対価の循環で見る快不快感という側面に根本原理を浮かべられる。力を投じて力が回る事による健康の持続に動的良質性の肝が備わり、外界との適正な調和や不調和が作り出される。体験から適当な循環にあると思えると、自然な納得感や充実感が形成され、歪んだ性質と交わると、盗みや詐欺という態度が作られ不快感が強まりエネルギーの好循環が停滞し健康を損ねる。クズな人間性と関わりたくないという予防の智慧が形成され不快体験が教訓と纏まり事後の行為に反映される。一定のエネルギー循環における同一性が生じて、関係の反復性へ及び良い気流の耐久的な発生が向上する。体験と予防の智慧と事後的反映の周期が作られ健康管理の基本原則が形成される。ボンボンや特殊な業界との交わりは、不快感を生む典型的な例となり、好んで積極的に関わる事へは及ばず、深まるような関係よりも最低下限の関わりを持つスタンスが備わる。健全な発想と自他の利益の生産と適当な分配に至って、エネルギーの良質な発生と返還から健康な心身が持続する。このような体験が各所の応用的な観測や生産に及び、どんな対象を映しだすにも基本構造と相関を与え、知ると作るという作業の基礎概念と備わる。自然や動植物との対峙も生きた有機体としてエネルギーがどのように回っているか、自然から得られる人間にとって良好なエネルギーはなんであるか、そして、それを得る為には人間から自然にどんなエネルギーが必要か、こうした発想が作られ各所に応用される。エネルギー循環という基本観点が内蔵されて、生き物の根幹的な原理が作られる。心理学や医学も、おそらくこうした実体験から専門知見を深めて体系化される領域と思われます。社会科学という場合においても、根源性は同様になりあらゆる知見の基礎基盤と備わり、生産性に反映される。抽象論で平和を語るような表現者には、どこか平和とはかけ離れ不健全なエネルギーを発せられると感じられる。基礎の弱い専門性や頭ばかりがでかい生産性や作る物事の効用と外界との対話を適度に持たないと基礎基盤の原理が掴まれず、どこか可笑しな性質が起こりエネルギー循環の適正を生み出さない。妙な宗教や寡占構造の特殊性や物理性への過度な依存症等として取り上げられ、人間形成過程への思慮が深まり人間像が形成される。文化や哲学の中心的な焦点と定まり探求が深められる。犯罪の発生や予防、積極的な生産性と両面の因果への思慮を進める枠組みが作られ、効用と実感という面を中心にしてエネルギー循環の状態と適正度合いを測定し過不足への是正を起こす生産と分配へ及ばせる事が人々の基本的な観点と内蔵される。表層事象に確かな枠組みを提供して、良質性の向上へと及ばせる基本原理が提起される。妙な肩書などへあまり執着する事無く、純粋な観点をもって適当な評価感覚を起こし二次三次に加工された固定概念に寄らない認識と行為へ回り、新鮮な良質性が持続する。