中身の質実があり、そこに何某かの抽象観念で性格を付けるという思考が形成される。前者に、現象を作り上げている姿が起こり、後者は、傍から眺めて形容する姿になり、感覚的、感受性的な側面と頭脳的作業の対比と現れる。質実は感覚や感受性の発生する場面にあり、直観性の本能的な現象を指し、それに何某かが、評価感覚を起こしたがる。この構造に、どこかフラットな意識から離れた非生産的な感覚が生まれ、分析好きや評論好きな体質が作られる。現在進行形の事象に対して、どこか分断を設けて事象を止め自己の身を投じずに、離れて伺う態度が作られる。評価を付けたいという願望が強く、自ら作る体質が弱まり、事後的な受動性の構えが深まり、外界から制御される基準尺度の細い性質と見られる。実務者と歴史家、経済と政治に対して、教育文化の立場や、ラインとスタッフという色分けにも映り、後者の割合が強まるほどに、中身の弱い生産性が強められる。この傾向が広がって、悪い意味の現代的なサービス経済化の状態へ及び、当事者性の弱い観測者や評論家が前面に現れるような事態に良い心象を与える人々は少数に思います。眺めながら、程よい所でノコノコと現れ、自身が作ったかのような態度を形成し良い所を虫食い的に盗む悪性が生まれ、歪んだ感受性と体質による糧を得る生産の規則性と映し出される。自己の技術と需要の特定されない何でも屋さんの性格と映り、エネルギーの分散的な状態と真面な力を投じる事を避け、出来た物事を利用する生活習慣や机上型の学びを主とする教育作法等によって、生まれる悪性面と映る。過熱しすぎて我を見失い、直観的本能の暴走的な事態へついて、適正な尺度を持ち利害の弱い立場による冷静な事象の認識によって、当事者への適当な助言と作用する場合も見られ、負の面と正の面が浮かんで、存在への意義や理解が進み一定の許容性が生まれる。正の面という性格に映るかどうかは、基準尺度の善し悪しや当事者の効用感の生じ方にあり、余計なお世話や立ち入り過ぎにないか、良い改善の発見に連なった等々、様々な心象により作られる。この自然な実感が作用して、再び耳を傾ける対象となるかどうかのリピートに反映し効用や価値の実態が起こる。こうした二面的区分に対して実際は特定分野の専門知見を集め、誰よりも詳しいと自称し、且つ作り上げるレベルにもあるという実務者と評論の作用が形成され併せ持つ性格と統合される。実務と理論が生まれて基準が作られ自己と外界を測る尺度が備わり、顔の見える主体性と及んで健全な感受性と体と頭の相関から生まれる人間像が現れる。作る次元にあるか、それとも作れはしないが、当該分野の幅広い知見を持つか、等々、多彩なスタンスが起こり、いずれにおいても誰かが必要として、効用を抱けば、意義ある活動と見做される。しかし、対象への影響力が強まるほどに、個性的な性質から次第に一般的な感覚が求められ、多様な視野を取り込んだ生産性へと圧力が働き、角がない当り障りのない抽象的な概念の表現へと進められ、中身の薄さという相関に至る。これを良いとするか、個性的で波風の立つ方がよいとするか、ここにも意見が分かれる。生産者の意図するビジョンを表して限定性を設けその尺度に公平公正なスタンスという構えが生まれて筋の通った健全性が起こり、中身の善し悪しは別にして、健康な体と頭と心の状態を反映した生産者と浮かび上がる。「個性か、一般性か」への解決はこうした基準と適用の公平性に見る一貫性において図られ基準への吟味と基準の適用という二つの面から生産者への異同感覚が生まれる。自己の生産する範囲の認識へ適正な把握を持ち、効用と責任とする範囲が掴みだされ、制御性を備えた性格において健全な性質と伺える。何を作るかの認識が曖昧で、あれもこれもと掻き乱すような態度に映ると感覚と感受性の健康な姿とは映らず、どこか破綻的な性格の負の心象が強められる。他者が作った物事も自己が作り上げたかのように誤魔化し、糧を得る態度には共存への感受性が浮かび上がらず人間自体の破綻とも見做さる。身を投じて作り上げる体験が弱まると作り上げられた物事への尊重心は現れず、頭の理解と体の理解ではだいぶ感覚が異なって生まれるように思います。詐欺や騙し、盗みの性格の強い生産者は外界の良質な性格を破壊させる原因になり信用を作る事への慎重な態度が強まり、或いは何も信用が出来ないという不信性や猜疑心を強める空間秩序が進行する。悪性の生産者は隔離して負の拡大を予防する対策が求められる。こうして一定の健全化へ及ぶフローの適正像が描き出され根元の性質を起点に精査される。
以上のように生産の二面的性質と、統合化した生産と、多様な分業の在り方と、影響に応じた一般化と、個別性と一般化への調和性と、不健全性と健全性、負の生産者への対処と予防という文脈が生まれ、根本の感性を測定する観点が作られ人間自体を知りどうあるべきかの発想へ及びビジョンと生産の制御へ至り基準を持つ主体性と現れる。中長期的な視点へ対峙する習慣と起こり文化慣習という生産性が現れる。どんな様式をもって文化慣習にするかは多様な方法論が生まれる。定期的な見直しをもって根幹的性格への認識を作る発想が起こる事に有用性があると思います。形式と実際、器と中身の相関になり、両者の統合で実感の深まりが生まれる。外界が、迷惑だと意思を表したにもかかわらず、迷惑ではないだろうと解する分けのわからない性格は、壊れているとみなすのが自然でしょう。大丈夫ですか?未成熟というよりも、病的だよ。