「日本文化原論」の生産性

様々な理論が、描き出される。例えば「マズローの欲求五段階説」では、生理的欲求、安心・安全欲求、社会的欲求、自我の欲求、自己実現欲求、等という言葉で、欲求の高次化する過程が示される。こうした理論を頭から入力して、自己の欲求をこれに倣い理論と自己化の過程を強めるか、自己のある状態への実際的な認識を深めて理論と自己との対比をもって異同を確認される事へ及ぶ。

頭だけで入力し、体の工程へ視線が及ばないと、理論をそのまま受け入れる体質が強まる。体の工程を軸に持つと、人が謳われる理論について検証する尺度が備わり、観念図面を体側の質感で感じ取り、受動的に吸収するばかりではなく、自己の尺度に重心をもって違いを掴み、良い面は受け入れ、悪い面は捨てるという自己主体的な性格が作られる。むやみやたらに洗脳されやすい体質は、完結的な自己生産性を有さず、体からの質感を常にして確かな実感を形成されない所から、頭による操作性へ流れ、他律的な尺度を無批判的に受け入れられる。自己の生産性に対して、根本的な原理への問いと答えを、定期的に深める作業において、確かな尺度が強められ、体と頭と心の有機的な連なりを持つ主体性が作られる。

頭ばかりで吸収し体の工程を経ない消化不良によると、確かな確信や自信を形成する事無く、外界からの受動的な反応に流れる感性が進行する。そして、物理依存の激しい感覚が強まり、詐欺や盗みに安易に走る犯罪体質が作られる。頭へ偏した体質や物理性への過度な依存体質という面から、人間の歪んだ受動性が強まり、性質の劣化が進行する。人の作った理論へ自己の理論から適当な距離をもって、関わるというスタンスがないと、こうした性格が強まって、自己発信力の強まりよりも、外界の発信を受け入れる側に回る。本に書かれた二次情報を吸収する行為と、実際に体の工程を経て頭へ描きだす一次的な吸収との違いが明瞭に表れ人間の性格へ反映される。

頭だけの知識は強い確信が生まれず、体で実際に検証する事や、体から体験を進めて皮膚感覚的に理論が備わる確信性を持つ主体性との違いが顕著に表れる。こうした法則性を抑えたうえで、人間を作り込む方法やビジョンが起こされて、健全な主体性を作る道筋が生まれる。地に着く人間を志向するならば、頭ばかりではおられず、体に重心をもって、強い確信性を体験しながら理論を表す事へ及び、外界へ強い発信性が起こる創造者が生まれる。物理的な質感を抱く事と心理的な感受性を抱く事と、これらを勘案して生まれる理論と及んで、妙に偏った性格へ寄らない根の健全な創造性を表される。

時短的な情報の吸収という面に対して、体の工程を省略する面へ視線が及ばないと、ロボットのような感性が進み、適正な尺度から取捨選択する作用が弱まり、受動的な体質が深まる。頭でばかり知ったようになり、底の浅い根の痩せ細ったマスコミ体質へ陥り、自己完結的な生産性の弱さへ及んで、自己の尺度やビジョンの弱い即効的な右往左往が進み、外界へ良くない影響を作られる。これに大きな力を与えると真面な社会秩序から乖離する。

管理手法や管理欲求ばかりを高めて、実際的な物事の作り方や感じ方が弱まり、無色透明の物理性への過敏な反応を作り、短変数の欲求を持つ主体性へと進行する。感性の貧困化という潮流に、適度な予防策の導入や適正な人間形成への思索が深められて、健全な人間や社会の形成へと力が投じられる。この転機に当たるのが、現代の時代状況にあり、哲学や文化を顧みて、適正な根源性を抑えた欲求を形成する事において歪な感性が制御される。

理想と現況と方法の枠組みをもって、価値や方法という区分を備えて力を投じて、自己の欲求ばかりを中心に取らず外界を見据えて、漸進的な変化を起こす心と体と頭の有機的な生産性が生み出される。文化論の性格は、ここでいう理想概念を強めに表す作為になり、確かな軌道やビジョンを起こす作用が生まれる。これが現況の掴み方へ反映されて感度を作り、喜怒哀楽や快不快へ及んで方法への熱が進行する。

理想と現況と方法という完結的な生産の周期が描かれて、頭ばかりで欲求を表す態度への適正が起こり、体を投じて実質を掴む生産性へと進められる。本書で描かれる文化論自体が方法の意味合いに及ぶようであれば効用や価値が認められる。実際に人々に用いられていることがこれを実感する場面と規定される。当方の感性では、少なからずこの部分の実感に及び、頭の表現という性格を超えた創造性であると考えます。潔くないみすぼらしい盗み症には、この事を認めることが出来ないようで残念です。変な奴が中心に居座ると真面なエネルギーの好循環が喪失する。