学者の自己満足か、有効な手段か

「相手方はどうあれ、自分はこうする」という意思を表現する行為と、それを見た相手方が「どういう反応を示すか」この相関の根拠に、過去の規則性と現在の状態とそこから予見する未来の行為への想像が及ばせられる。過去から映し出される相手方の性質へ自身の態度を投じて、どのような態度に相手方が出るか。自己の善意という方法が相手方への行為に反されるか。

こうした論理の中で、中身に当たる個別事象の体験が配され、善意ある態度を取るか、悪意を含んだ性質としてこちらも構えるか。善悪の割合をどうとるか、構え方の割合に反映するか。絶対的な自己のポリシーとして善意あるままの態度を崩さない事に価値を見るか。

「私は暴力を進んで用いません。しかし、攻撃された対抗します。」という各主体に在る自然権と、他者との同盟関係と同盟の程度に即した主体性の在り方が想定される。これは自己から見る環境の変化に応じた振る舞いへの反映か、環境に関わらず、一定不動の態度を堅持するか。他者と自己との区分や価値の異同割合で浮かぶ主体性の実態が現れる。

他者と自己の間で備える価値以外の価値を持ち、それによって起こした争いへ対してその主体を肯定し命を懸けて反撃に加わるか、争いの発生を起こす事前に、その理由を伺い同意できるものであるか、単独の判断で異なる因果による行為をとり、そこから争いが深まった事へ対してまで協力すべきか、命を張る程度を経緯から導出するか、単独でどんな判断を取ろうとも、一心同体と見做して体も従うか、集団的な自衛の概念と個別適用に見る数々の想定が浮かび、関係性の在り方を表す内容に反映される。

専門者としての知見を表すという態度に留まっての判断であるか、体も用いて投じる事を約束の上に判断を取られるか、間接的な立場と当事者性の違い等も含んで、表現への重みが生まれる。「頭だけは貸すが体は出さない」事を前提にして判断だけを渡す事へ、他者が従うか当事者となる覚悟を持った表現の質的な相違が信用の程度に連なる。その約束を行使する事への信頼性も含んで表現者と表現内容への力が加えられる。体を張って生み出される観念への深さや重みとなり、両面を切り離してみる事の限界等となり、人間と技術の一体性で実態の質実が測定される。表現への根拠の内容が確信性に及ぶものか。

こうした点から方法への賛否や異同が生まれる。学者の自己満足と見做されるか、生命の存続に有効な方法と見えるか、責任感覚がどこまで伝わるか、根拠を示して他者が判断する。

文化ビジョン

文化ビジョン

「なるべく質の良い利益を大きく広げ創り上げたい」というのが、有限の自己から生まれる無限への解答であり、最上の行き着く欲望と言い換えられ、この描き方に個人差が生まれる。

感覚的な質感を得るという強調で、一定の健全な人間性を作る事になり、これが長期に渡る耐久性や持続性への方法になり、一過的な利益の最大性を意図して後に大きな損失を招くという醜態を予防する概念と抑えられ、質の担保が図られる。この安定作用を備えた利益の拡大という質量の構図が最高の答えと算出されます。

このような静態的な構図も、実際的な動態性に於いては、単純に描ききれず、失敗や成功という中小の体験を行ったり来たりする中で、健全性という基軸とプラスマイナスの感覚が磨かれ、マイナスの体験も経る事があってプラスの感覚を良く掴みだす事になり、観念的な想像性やクリエィティブな空想性の豊かさが、創造の動力になり、そこに感覚を付けるような動きに至るか、無限と有限を抱き循環し、実感的な質を得る。

無限性を縛る事になるか、創造性を弱める事になるか、生命力の弱まりに至らぬか、個々人の良好な部分を阻害しないか、良い所を生き生き伸ばすような発想や、良い所が伸びている状態に快適性が描かれる。

しかし、悲観性の部分を一定程度抑えないと、生命を失う危機を招き、前進性へ重心を持たせて、後ろへのベクトルが生まれ、楽観と悲観を備える創造性に健全性が弾かれる。

無限に有限性の概念をある程度入れ、しかし、挑戦型の動力源を弱める事のない活動像において、健康な精神と肉体が叶えられる。悲観ばかりによると、外界を阻害するエネルギーが多産され、人々の喜びを委縮させる存在が生まれる。内向きな性質が深まり、健全な前進性のパワーを弱め、酷くなると負のスパイラルが増進して、悪性の感情ばかりが深まる生産性へと及ぶ。

欲望と力と責任の均衡という尺度を目安に、一定の健全像が計られ、不足に悲観性、プラスに楽観性の強い性質が映し出される。局所でこれを見る事無く、大きな図式の割合感で全体を掴み、プラスマイナスの良き衝突を持ちながらも、少しでも前に行く向上にあって、生命体の無限化への挑戦が重ねられる。

肥満症とは、悲観が進み過ぎて、悪性のエネルギーばかりを作る主体性であり、ここに至っては良き非観とは異なり、病として隔離するか切除の対処が欠かせず、全体へのマイナス要素と明確化される。

以上のように、楽観性型と悲観型と肥満症という3つ程度の主体性を分ける類型で単純化され、全体としての動態や割合を掴み、感性の良い舵取りの立場が少なからずあって全体調和と成長の持続的な世界の実現へと進行する。

このようなビジョンで纏められ、健全性概念の意味や配置の精緻な性格を付ける事になります。縛るばかりを意図する文化ではなく、如何に危機を最小にした無限性への軌道を促進するかに長期に及ぶ利益が生まれ、生命の最大性という理念と展開のビジョンが創出される。これに資する各種概念を生みだす事が、欲望と充足の構図を指し、縦横の密度を高めて、生きた連なりをもつ生命観を宿した概念を生み、実際との一体性を含んだ創造を意図した力が注がれます。

日本文化原論の要旨

人間は他の動物と特段異なる特徴として、欲望を充足する為に言葉を作り用いる事が出来る能力を持つ。感覚を記号に置き換え他者との同一感覚を頭脳で理解し、感覚で得る為の協働生産方法を考え実施する過程と映し出されます。生物物理感覚と心理的な感覚に大別され、前者は身体構造上の特性から生まれる必要な栄養の吸収や身体器官が感じとる働きを指し、後者は人や自然から抱く情緒的な心象を指し、喜怒哀楽を主にした情動と現れる。

この二つの感覚と混合的な状態を主にして、手振り身振り、言葉や概念、関係性、論理、体系等に示し、快適や不快という感覚を人々へ知らせ、良好な感覚を抱けるように働きかける技術や、一緒に快適を得る事やより大きな快適を意図した方法へ思索が進められる。つまり、欲望と充足という活動に集約されその中で言語という道具が発達し多種多彩で高度な充足方法が発達した。

しかしながら、その弊害や逆効果がしばしば現れる。自己の感覚とそれを表す記号に対して他者との異同が生まれ、違いについて丁寧な意思疎通の反復を持って次第に同一性が高まる過程の認識が疎かになると、一方向の思いこみが強まり、相手方の感覚を良く伺わずに強要するような力へと及び、そこから心理面の不快が生じる。それへの反応を適度に取り感覚の同一性へと及ばせる事が人と人との協働生産活動に上げられる。この自然反応を物的力の格差等から一方向性が固定化して各人の自然反応を停滞させる等の状態が現れる。物性力で心理面を抑圧し一方の意思を強め充足する流れが作られる。

この感覚的な欲求の制御性の弱まりと、心理面で得られる快適性への欲求が減少し動物的な感性を増進させる生存本能が現れる。別の角度で言うと感覚や感受性に一次的な側面があり、言葉や概念は二次的な道具の性格に在り、前者の欲求と質量が後者の用い方に現れる。後者を過度に先行して前者を得るという主体側の意思を積極的に叶える作法が進み欲求の前のめりとも伺える自体が出現する。

各種専門性という領域化が生まれる。これは欲望に対して有効に叶える方法と配される創造性を指し、どんな欲望と充足に在るかについて、自他の認識の異同を掴み有効な付加価値の向上を意図する事が専門供給者の持続的生産と生存への原理と描かれる。欲望という理想とそれを叶える方法の構図に現況という概念を取り入れ方法の段階的な構成を持って、有効に実感を浮かべるという工夫が図られて、欲望を確かに叶える丁寧な質感が形成される。

これを怠る程に供給側の一方向的な態度が強まり言語や概念ばかりを先行され感覚的な実感の不明瞭な表現の生産性が映しだされる。こうした面が、今日的な言語文化のマイナス面と現れ、感覚面への丁寧な質感を形成する意識が注がれて、各種専門的方法の良質化へ運ぶ事が課題とされる。頭脳へ偏した習慣や規則性に身体的感覚面が強調されて供給と需要の適正に漕ぎ着け良好な心理的感情を意図する活動に及んで物性と理性の適度な感性が生み出される。

道具の発達と依存から身体面の未活用や衰弱に対して各種の不快な感受性が起こり、生産事物や自己の客観認識を進めて外界との適正を見出す方法へエネルギーを注ぎ適正な調和を作る姿に健康な精神と肉体を備える人間の実感が生まれます。このような根源的な観点が抽出されて専門分化した生産にしっかりと大地を掴み栄養を吸収する根を張った健全な人間生活の基盤を作る事に落ち着きある精神の安定と適度な挑戦の躍動的な活動に及ぶ。

持続的永続への循環世界を意図するビジョンが示され長期的な視野を含んだ人間を作り込む焦点を含んだ調和に在って健全な主体性が生み出される。作った道具が余りにも力を持ち、それに振り回される事態や縛られる実態が現れ人間の意思が制約される。本来的な目的と乖離した状態へ深まり悪用へ走る事無く、初動的な点に立ち返り事柄の重心を再認識の上に適当な序列と評価を見出す冷静な歩みに於いて健康な感受性が守られる。精神的な弱まりと生存環境の厳しさ等を背景にする現代の状態に理想的な人間像を強調して、適正な方法を見出す思索や活動が少なからず必要に思われます。