違法かどうかの見解を示すには、直接の該当する条文と事象の特定を持ちこの相関で判定を見せて表現者の見識が浮かび法という限定上の感性が表される。これ以前に、多く人の立場は善悪美醜から物事の判定を取り、良いは増進、悪いは削減という感覚が備わる。在る行為をとり他者からの快不快感が示され、指摘への納得感や賛否の程度で異同感覚が生まれ、互いに詳細な論理が組み立てられて精緻な感覚が示される。その根源的な根拠にどんな感覚を充てられるかが反応の源泉となる。この部分が変容しづらい皮膚感覚と言え、そんなに違いは生まれないようにも思われます。
しかし普段の規則性や幼少期から永年の歩みで形成された特性が体質となって固められ、ここにあまり大きな違いを作ると皮膚感が大きく異なって相違の幅が広がりなかなか同一性を創り上げるに及ばない。社会的に大きな影響力を備える人々に在っては、自然な感性の在り方について利害関係者から問われ、法律よりも皮膚感覚から関係が作られて関わりの深度に及ぶ。法を持ち出すよりも、自己の適正な論理を組み立て他者との真摯な比較で対立や和解を見せられて調和に及ばせる自主内発性に人間力が判定される。
法を根拠に取るかよりも自己の尺度に沿った見解が先立ち、法の所在を知り法自体と自己の尺度の異同が現れ利害の対立を調和に導く方法が創り出される。こうした思索過程で見ると、違法かどうかはかなり限定的な焦点の適合性で在って善悪美醜の絞り込まれた判断を示す事に成る。誰に対して説明される事か、どんなビジョンを志向されるか、全人格的な姿を分母に部分的な事象が取られてバランスの良い総評的な表現が見出される。その上で見る人がどんな心象を抱くか、対話の持続に叶う相互的な感性が繋がるかという道筋が生まれる。
問題事象の発生は良く知る機会に成り学びの場面と置いて実直で真摯な反応を見せて良好性への力に転換する。逃げるような態度をとる程に不信や疑念が深まり問題をマイナスへ回して距離の遠のく関係に及ぶ。逃げ癖や誤魔化し癖、小手先型の体質は真正面の反応と外れて良好な対話を作られず堂々と考えを示す心地よい姿を多くの人は望まれる。後ろめたさを持つほどに基軸の弱い論拠や反応が顕著に浮かび上がる。善し悪しへの心象は体全体から伝わりそのままの実感に及び次後の関係に連なる。「あいつの言う事か」という先入観へ及び途切れる事のない因果が生まれる。体全部で認識が生まれ手先の反応を規則性にする体質と映るか、この辺りが根源の性格と捉えられ記憶の深くに留められる。