文化の一丁目一番地

発言から頭が物性原理で凝り固まった様子が伺える。価値の尺度が単純化され序列を作り、その背景図を前提にした論理が作られる。この背景図に良質な感性を描きだす事が要り文化体系とはそれを意図した創造に成る。人々の基礎はフラットな状態から出発し、何がしかの欲望の共通性が生まれ充足する手法に有効な合理性を作りだす。共通の欲望には、単純に物的感覚から欲しいと望む事意外に、不快な人格には関わりたくないという欲望も生まれる。後者の面がどこか忘れているかの傲慢な感性の持ち主の背景図は少々標準的なものとはかけ離れ、単純原理で何でも操作できる発想が濃厚に伺える。ここから万人共通の制約を飛び越え特権的な感性を露わにさせ他者の描く背景図を見ずに自身のみの一方的な概念を強められる。両者に備えられる根源基盤となる部分が、どんな状態の変化に際しても不動的に固められ、人間概念により不変性を保つ事で各人の根を共通にした異同感覚の尊重という構えが生まれる。最低下限の人間概念は少なからず必要になり如何なる諸条件が変化しようとも所与的一律の感度となる。

その優先度の高い事が身近な事象では「盗み」であり、相手方の意思を確認せずに、独り善がりの思い上がった行為をとる愚かな事象であり多くの人の感性であり根源基盤の中枢に占められる。この崩れは人間自体の崩壊を意味し無条件の制裁を与えて死守する事が絶対性の原理でありいかなる理由も正当化される事はない。この点が万人の背景図や根本図として固められ最低下限の文化図面に成りこれがクリアーされて理想の要素が加算される。前のめりに成って下限を守らず上位の発想を持つ事は本末転倒の姿であり「分を弁えろ」というのが文化人の資質であり「何様に成ったつもりだ」というのが文化図面の一丁目一番地に謳われる。これを崩さない事が人間の条件と考えます。

芸術や美術という観念も本筋から外した細分化により本質が歪められ意味の取り違いが進む事には人間の価値を損なわれる。価値の偏狭性から健康な軌道に亀裂を作り自主内発的主体性を破壊する。これ以上は相対性の事柄が多く、断言的或いは強要的な主張を取れば却って人間性の狂いに及び、真摯な対峙から相互的な共通欲望という実感を掴みながら相互尊重の構えを持ち共生や協働の関係が深化する。現代社会の物性型の進行に対して歯止めとなる根幹原理を強調して明瞭な線を引く事が重要に思います。異常さの自覚のない所にまで及んでいる人々も散見されはっきり明確に態度を示す事が相手方にとっても有意なのでしょう。本来的には言うまでもない事と思われますが、他律性の感度が進行して制御不能な姿に陥っている人も現れておりこの辺りに大局的な時代から映し出される負の性質が示されます。

掃除しろ

1)美感の維持と上昇

今日、ヘイトスピーチ等という事が問題に取り上げられている。これの本質的な点は、表現の汚さもさることながら、それを生みだした理由にも着目する事が必要であり、どちらかという重点は後者に当てられ、それに対して表現の適正を問うのが適当な筋道と現れる。どこか表面ばかりの実感で事柄の性格が付けられる事には真相を歪められ可笑しな感性が進行する。

犯罪を働いてその後の当たり前の手順はまず謝罪だ。同時に損害賠償、これ以外にない。関係が修復されるのは道理に沿った反応を見せてからであり勘違いをされない方がいい。一方向的要素が強い下限的制約を超えた者が行う当然の筋道は変わる事がない。相互的原因に於いては、一方的に頭を下げるような事はなく、何がしかの譲歩や折衷案を執り行いフラットな感情への修復が生まれる。

盗みという行為は一方向の犯罪であり、理由の如何をとる余地がない。鍵を閉めておかないのが悪い等という言い分を取るのであれば、頭が逝かれている異常者であり話にならない。社会的な地位等という事は個別的事象に在っては考慮外で在り、事実認定される範囲は直接的な不快行為で限定される。これに対して原理となる規定はいくつかに分けられ、直接的行為の実感に及ぶ規定と間接的な規定等という重層性を持って適用される。現在の物性型の体質は、この一個人としての健康な常識感覚を歪め、社会的地位や所得等という事に妙な依存を見せ、フラットな立場での当たり前の常識感覚を崩し力を暴走に用いられる傾向にある。偏狭な価値基準でごく当然に古くからの歴史の積み重ねで規定された特定行為類型をさも簡単に超える感覚に現れ、異常さに気づかない困った人間を創り上げる。伝統的な感性としての平等思想とその具体的な展開と表される力と責任の均衡という自律的な適用を持たない他律性の感度が進行し、力へ振り回された人間性の欠落した姿がしばしば見受けられる。この感受性が歪な精神性と認識され過失を働きながら相手方に原因を求めるような気違いのような論理を組んで正当性を示される。

こうした背景からも、根源的な人間の健康な在り方への思索やその像を明瞭化させ、異常な感性への抑止や予防を高める作用が求められる。根源的な価値とは万人的な感性を表し、一部の異質性を生じさせない為に長い時をかけて創り上げられた体内的な感覚であり、それを文字として明瞭化する事で共通的な認識を固めさせる。異常者にも解るように平準感性を明らかにして、二次三次的な付属要素を加える事無く、所与の基盤に対する直接の適用を取り人間の基盤が維持される。小学生並みの知性があれば誰でも当たり前に感じ取られるように、根源価値の認識が作られて付属的な事柄へ依存して、基準の適用を歪めない事が価値を重んじた理性の作り方に成り、物性の感度が進行してこれを歪める正当性の示し方は許される事はない。勘違いをせずに当たり前の道理を貫くのが人間の条件でありこれを固めるのが適当なのでしょう。一部の異常者の道理を進行させる事無く、歴史の重みを当たり前に持続させられて一人前と見做される。子供のような大人を増加させない事がインフラの一番の役割のはずが、逆のような事では目も当てられず常識を通せない子供とはまともな関係が進む事は無い。教育の失敗から出来そこないの大人が社会の要路に就くようでは、根源的な改革が求められるのでしょう。

このような性格に対して、ゴミやクズなどという表現が生まれる事には、そんなに違和感は生まれず、少なからずこうした映し方を取られる人もおられる事かもしれません。原理や尺度となる論理を示して実際事象を適用するという過程を踏むのが理性的な表現と成り、論理基盤を持たずに、荒っぽい表現を行うと理由や根拠が脆弱と映り、外界への不快性を与えられる。酷い表現かどうかは原理の内容や保有と適用の有無で判断され真価が付けられる。表面ばかりを整え内実が薄汚れているとなればこのほうが批難され実態を炙り出し真実を明瞭化させる事が重要に思われます。醜い者に光を照らす事無く炙りだすのが適当な用法でありあらゆる物事の源泉は美感に置かれこの感じ方がエネルギーに転化し人間や文化の中軸を創り上げる。生産者として或いは人間として最も優れた性質はこの自然本能的な美性と言えるのでしょう。

健全な文化基盤の堅持

人々には社会生活上、使用者、労働者、顧客、協力企業、株主、行政、地域住民、といった性格の異なる主体性を持ち、各種立場での適当な振る舞いを何がしかの尺度によって取られる。そこでの調和形成の在り方の善し悪しから、満足普通不満という感情を抱き、それに対して、どんな発想や嗜好、態度をとるかが、直接間接に影響を与える。悪い方の影響を齎すと、盗みや詐欺、傷害、殺人、といった下限の制約を超える事象が発生する。直接的な態度を作る各場面での尺度と、それを導出する二次的三次的な尺度の連鎖関係が生まれ、根源的な不動性を帯びた価値観が、文化観念という長期性の原理と位置づけられ、尺度や基準の重層的構造として知覚される。このような構造と関係の中で、持続的安定と繁栄の仕組みを構築するという発想が生み出される。

前向きな発想は、顧客を想定して技術を提供する関係であり、これが直接の関心に取られて、建設的な気持ちの流れが作られる。この関係性に正々堂々と立ち向かわれて、快適や不快を体験し、技術や社会関係の向上へとエネルギーを投じて、良質な人間の成長軌道の推進が成される。
これに直接関係ない者が、阻害的な発想や行いを取り、好循環の軌道を妨げられる。真摯な対象との対峙を取らずに邪な道に逃げて、気持ちの悪い気流を与え負の連鎖性を齎せる。これが、社会生活上の各種主体者における負の原因を起こす事象と成り、プラス型の前進発想に対してマイナス性の発想をもった不快事象を生み社会生活の良質性を損ねられる。

直接関係のない立場が、自身の顧客との建設的な対峙を持たずに、各種関係への横やり等を与えて、関係をかき乱して、何がしかの利益を奪うといった行為を生む。関係の良質性を意図して介入するに際しての要件が明瞭な良質化への基準の形成であり、この尺度から独自の公平公正な批評などを取り、適正な付加価値を生みだすという作用があって、間接的な立場からの意義が生まれる。この作用にない中途半端な批評というものが関係の歪みを生み迷惑な介入者と特定される。

基準尺度の形成とそれに忠実な適用を取り、判定の情報を公平公正に公開される事に在って批評や介入に一定の意義が備わり、恣意的な利己性を持って場当たりの態度を取られて他利の弱い自利へと流れ外界をかき乱す虫食い的生産者と見做される。このような事象が好循環を阻害する根源的な原因と思われます。
詐欺や盗みという性格の強い事象であって、建設的な利益を堂々と提供する道から外れて欺きの発想で他者へと介入して利益を奪う発想の強い性格と現れる。これに相当する個々の事象を明瞭に映し取り、広く公開して事前予防型の施策を投じる事も少なからず必要なのでしょう。

このような焦点を導出するのは、根源的な文化観念体系からに成り良質な普遍的原理というビジョンを描きだす事によって、その尺度を基準にした負の性格や原因として鮮明化される。基準尺度を下にして、マイナスは削減しプラスを増進する為の根源原理を固めて健康な軌道を強固に創り上げるのに、歴史の教訓等が生かされて普遍的な型枠に纏められ、平易に明瞭に表す事が有用な効果を齎せるものと思います。
物性依存型の体質や発想が、正面に向かわずに横道の手法に逃げられる。力と責任の過不足から肥満を直す試練が与えられ、健康な心身に戻る自然な浄化反応を社会の根源的な意思として固める事が、正を伸ばし負を削減する原理と作用する。この適正な循環をもった根本の良質性が太い幹を作り枝葉や花と実って正常な有機体を構成する。

以上のように、「社会概念、負の事象、明瞭な基準尺度の構築と適用、導出原理」という基軸論理を固める事によって人間の良質な背骨が創り上げられる。文化体系は根源の導出原理に位置づけられ、これが鮮明になる程に感覚的な個別場面にも反映されて、長い目で見る真価を外さない基準と判断へと及ぶ事に思います。歪んだ発想に毒される事のない健全な歩み方となる不動の原理を広く創り上げるといった志向性を持つ事によって文化観念の実際化に深く浸透する。

今日的には、サイバー犯罪という当事者性を明瞭にせずに、情報を盗み出す悪性の事象が多発しており、これへの深刻な対処を取る事が重要に思います。偏狭な価値観に留まった技術の悪用を進行させずに、堂々とした真摯な対象との対峙という文化基盤の下落を予防する施策が重要に思います。

主要成果物:統合ビジョン(3要素の循環世界)

5)主要成果物:統合ビジョン(3要素の循環世界)

法律か、物理力か、いずれによって統制させるかという両極端な発想には、良質な世界観が生まれず、これらを結ぶ論理形成から確かな全体図面が現れる。法律は観念、物理力は感覚と置き換えられ、両者を感受性という作用で制御させるのが健全な人間の創造になる。

法による支配や力による均衡という片面の世界に、力と責任の均衡という原理を志向する所に人間の感受性の所在が確認される。これが永遠の生命を望む根源的な欲望と充足の方法と固められる。物理という感覚を、頭脳的な操作で観念化し、人との関係性が想定されて、喜怒哀楽の感受性が含められる。人との関係性の基礎に、共生感情が備わる所に人間の中枢的な性格があり、その上で喜怒哀楽感を抱き一定の制御性を持つ感情の範囲が制御される。

怒りという感情も、根には共生感覚を持った上での範囲にとどめられ、下限的な不快を超えない範囲での感情を持ち、感覚と観念を作り出すのが、健康な人間の感受性と置かれて物理と観念の調整が果たされる。

共生感情の展開に、下限の制約と積極的な創造と、間の因果形成という3つの観点を持った全体図が示されて、生みだす事からの滅への配慮という感性が内蔵されて、共に生きるという姿が現れる。

この基本的フレームを持ち、個別の所で均衡感覚に対しての解釈のズレが生まれ、喜怒哀楽という感受性が現れる。マイナスとプラスの因果形成や下限行為の感度の異同が、質の異なる感受性と現れて、異同感覚を確認しながら、相互的に譲歩出来る所を探り、均衡感覚へと近づける意識に在って共生感情の実践とされる。

独自的な価値観と共に譲るべき所を探し、一方的なエゴを強める事無く、欲望に対して力と責任の均衡を基準とした調和を創り上げるのが、人間界の普遍則と描き出されます。こうした過程が、感覚と観念に対する感受性による調和を作り、統制を図る世界観と示され、物理や法という一面での統制による矛盾を良好に解決する道が描かれる。

多くを望むのであれば、それを叶える力が要り、力の行使に相応しい感受性が備わり、外界からの均衡感覚が確認されて物事の円滑な進行が生まれる。

この論理をベースにして、どこかに不足があれば、進行速度は停滞するという人々の心理作用が現れる。物性での強引な進行には、所々に無理が生まれ、負の事象が生み出される。それを見越して、徐々に要件を整えながら適度な進行速度を作り出す歩みに適正調和が現れる。このような論理を総称して、道徳と経済の融合、知行合一、心技体等と説明され、根源に感覚と観念と感受性、身体と頭脳と心という不動の構造と動態の在り方が示される。

過剰な欲望から歪んだ手法に着手されて、マイナス事象を生みだし、プラスとの相殺される結果となり、この経験の積み重ねから、過剰に力んだ施策を取らずに、自然体の創造に及ぶ事が快適な物事の運びとなり、このような全体観が行き渡る程に、幸福感の増進と不幸感の現象といった理念の実現へと近づくように思います。

この理想画に至るには衝突と緩和の繰り返しから、底の厚い感受性が形成され、感覚と観念の整合度に及び、一体性という実感が創り上げられる。フラットな感覚から真摯な対峙を持ち、正直な正々堂々とした誠実な衝突を生みだし、歪んだ姑息な手法による溝や罅を作らない事が同一の行動原理に備わって健全な軌道の前進性が確保される。法律と物理と感受性のトライアングルにより統制される世界に統合ビジョンが示されます。

ここでで示す「法律」とは、欲望とそれを充足する力と責任の均衡という関係性における責任を意味し、成文法等で

規定された法律に関わらず、それを含んで設けられる自主内発的な責任という広い意味の制約と捉える事に、主体的前進型の人間性が創り出される事に思います。この結果が感受性として現れ、真価の実感が生まれる。既成事実化という手法によって、正当性を増進させるかの歩みには共生感情の欠落や信義誠実な態度を外した歪んだ精神性が露わになり消える事のない禍根を残し、物性の欲望を制御できない不調和を齎せる。物理力に相応しい感受性の欠如と認識され人間に等しい適当な器に修正されて外界や自己との適正調和が果たされる。

 

 

 

文化活動からの生産事物

4)文化活動からの生産事物(文化実践の工程)

事象の認識が取られそれへの批評を下し改善案を提案する。その実施と検証で一巡の生産活動が想定されます。この生産概念を標準として生産の質が計られる。

ざっと見ていると、マスコミの生産活動は、事象の認識と曖昧な尺度による批評という所で留まり、印象を述べられる程度の生産活動と見受けられ中途半端な心象形成を大きな電波に乗せて発せられる事がしばしば見受けられます。

標準的な生産概念についての認識が揃い、どこの範囲の生産を持ち、どんな効果を担うのか、更に求められるのか、この点が整理されて、良好な交通整理が生まれる。

批評行為の質の水準をどの程度に於くかを評価尺度の鮮明性から計りだされ、基準が述べられて、基準との相違に批評が生まれ、基準に達する為の方法論の提起と、それへの信憑性と実施及び検証によって批評の水準や優劣が付けられる。例えばこのような批評についての概念規定が設けられて、観測や批評への測定が生まれる。標準とする生産概念の相違が各種領域の活動に反映され、需給構造の特性と認識される。こうした認識の差が、各種の問題事象という認識に及ぶ事からも、自己生産規定を出来る限り示す事が置かれて、需給の健全な認識が作られる。有形物の生産者が持つ、生産概念を標準にして異同を示し、実感規定を設けるなどして、各種分野の微妙な認識差を示す事が適当に思われます。それに即したコスト計算が取られ、適正利益率が算定され各種業界の標準的な経営モデルが備わる。

各種業界における健全な水準となる実感規定に差が縮まり円滑な対話が進み文化基盤の良好性という認識が作られる。概念規定と適用に創造活動の背骨があり、この実感の差が市場の効果で埋まるような循環に在るのが適性に成り、寡占市場の弊害が感覚の相違と及ぶ事からも、こうした焦点と規定を進めて、平等思想の格差が是正され平準感覚の厚みが揃えられる。

力と責任の均衡へと改良され適正調和へ近づき、不快感の削減と快適性の増進が作られる。基準概念をどのように取るかが動力に成って理に叶った批評や創造が進行する。

以上の事から文化的生産の規定を取るならば、最大分母的な目的の創造という事から、基礎や柱となる基準概念の創造と適用に連ね、生産や創造、均衡、事実、価値、健全等の人間生活に於いて不動的な根源概念の明瞭化や納得性の向上を作り出し基準尺度と用いられ、良質な事象を創り上げる動力と作用させる活動といった面が浮かび上がります。

表現と内外認識

字は人を表す。字に限らず多くの表現は、表現者の心境を表し、どういう善悪像や美醜像を保有しているか、それに近づけるようなイメージで描き出される。同時に、他者の感性も少なからず想定して、強い印象や親近感や敵対感を意図する等、何がしかの未来形成的操作が含まれる。自身と他者の感性をどのような割合で構成し、表に示すか等々の焦点を持ち、内面を予測するなどして、外観から多くの生きた面を想像し実際の表現者との交流から、予測と実態との乖離や一致を窺い知る事でしょう。

基本形となる型式をどこに於き、それと外した冒険心等が現れ平準感と許容性の範囲が作られる。どこまで基準から崩すか、あまりに崩し過ぎては他者との接点が生み出されずそれを想定した勢いや強弱、繊細性等々を作る事になる。こうした表現一般における同一的な原理が見受けられ、表現者の人となりを掴む事に及び、外観と内面を合わせて知る事が、良好な人間形成に重要な視点と浮かび上がります。どんな志向性に在るか、どんな快不快感覚を持たれるか、どんな歩みを果たされてこられたか等々の過去と現在と未来の抱き方を伺い、自身の側を同様に掴み自他を見る自身という重層の認識構造が生まれて、客観的に主客を現象化して、思う事への施策が投じられる。

感覚的な所を冷静に頭脳的に整理した示し方に及び、これらを意識的か無意識のうちに身につけられ、対象との適当な関係を作り出す現場的な嗅覚が発達する。真摯な対象との対峙を重ね、よく伺い知ろうと対象との交流を果たされてこの面が育ち、外観からいくつもの内面性への予測が現れ、見え方や見える多少さとなり、同一の事柄においても人によって感じられる差が生まれ、それが事実認識の異同に現れる。現場感覚や感受性を重ねて観念的なフレームを作る事が実際性を良く表す事に連なり、ベースは感覚や感受性にある事が確認される。

これが育つ過程と次第に衰える過程が生まれ、鈍感な物的単純性の短変数に及ぶと、傲慢さや怠慢な態度と外界から映し出され、良質な調和形成の感度を崩した思考や行為になる事からも、感覚と感受性を用いた習慣の持続を成して、ミクロ的な感性が維持されて、健康な表現が生み出される。様々な個人差があり一様には示しきれないものの、基本に対して崩す幅があまりに離れない程度の制御感覚が創り上げられる。
人間の複雑で多様な感受性が機械的感度の進行から、内面の精神も単純化に及び、その感性で複雑な人間を察知できなくなり、この感覚差が広がって無意識のうちに深い溝を作り良好な調和形成と離れて単純な衝突が多産し、道具に頼った発想の体質が作られる。有限の生命というアナログ感と、リアルな感覚と離れるデジタル感とが併存し、あまりに後者の割合が増えると可笑しな精神性が生まれ、予測もつかない、思いもよらない崩し方への危惧が生まれる。

アート的、アナログ的な感受性の発育と持続を生む習慣や慣習、生産形態、需給構造がこうした面から取り上げられ表現特性の意義が生まれる。同じような人間に見えて実際は多彩な違いの認識が弱まり、見え方が貧困化する事には良い傾向に映らず、どこか可笑しな軌道と感じられる所に正常さの実感が生まれる。ストレスとは心理面と身体面との乖離した症状になり必ずしもマイナス的な事象とは限らず、健全な感性を基盤にして現れる自然反応とも伺えます。権力という人口的力と長く関わる事は異質性を深められ、期限を設ける等の工夫が必要に思います。力を利己的な面へ用いられ行政組織と同質化し、新鮮な感性を与えない事や、健康な立ち振る舞いが出来ないようでは役割に疑問が浮かぶ。こうした面からの教訓を活かす制度を進めるのが自然に思われます。

表現一般と文化創造

表現一般と文化創造

文字や映像に表す事は、感覚の見える化や欲望を示す事に成り、個別的な事象の積み重ねから規則性が浮かび上がり、そこに対象や主体の性格が認識される。個別からの集約によって本質というような変容しづらい中核的な要素が抽出され、物事への序列感覚や価値観の体系が見てとれる。

短期周期と中期や長期周期、空間範囲の広狭、実感に及ぶ程度という質感といった点に寄り、動作の認識区分をとり、無限的な事を限定して対象の現象化に及び、特定的な認識が表される。更に過去に生じた事か、未来に生じさせるべき事かの区分が生まれる。
過去からの学びと未来の志向性を持ち、長期周期で広い観点での規則性の表現を試みる事に文化という観念を取るのが本書の規定方法に成ります。

この表現から、認識や共感が強まると、個々の事象の捉え方や作り方に、反映されるという想定が生まれ、これを望む人に在っては、根源的な欲望と充足という創造事物への性格が与えられ、文化観念も多くの生産事物と同様に、ニーズと技術という構造に配される活動と規定される。有形であれ、無形であれ、何がしかの効用の実感が生まれれば、そこには意義が備わり、技術と社会性を帯びた活動の認識が生まれます。

観念表現が感覚事象を生み、それが観念と知覚されるサイクルの中で、感受性が起こり、欲望と充足の循環で感受性が検証され人間側を知る事になる。そしてどう在りたいかの欲望が描かれ、それに向けた感覚や観念が作られる。
こうした認識の下に、人々の潜在的顕在的な欲望を推察しながら自身の欲望充足へと繋げたいとする相互的な循環の性格を持つのが、執筆活動の意図する事であり人間生活上の理に叶った行為と思います。

こうした活動から生まれる表現を盗む行為は、人道に反し、道徳心の欠如した人間性と捉えられるのが自然になり、それへの適当な反応を作るのが文化活動の一部と浮かび上がります。人間の程度を下落させない基礎を弁えた感受性を備えさせる事が現代社会の優先度の高い施策に思います。程度の悪い文化に成らぬよう、確かな根源価値が確認され、更に上昇できるようにと、
多くの人は望まれる事でしょう。