道徳の役割

道徳の役割

弁護士等や座学よりの学びを中心にされてきた人々と、感覚的に物事を創り上げてきた感性との相違は顕著に伺える。教科書に書いてある情報は二次的な事であり、それを読んで感覚の疑似的体験をされるのが、読書による作業であり、自身の直接的な感覚を経て文字に表す事とは明確に異なる。

過去の、他人の感覚の文字化を読み込む作業から、自身の生産的立ち位置で直面する事柄への材料として、未来の創造に役立て、そこで実際感覚の検証から二次情報の検証や発見で一次情報が生み出されるという両面の統合した工程が描き出される。

二次情報をそのまま保有し、自己の生産工程で活用しない状態では、実際感覚を取らない分、情報の解釈に差が生まれる。知の自己化がないままの二次情報の吸収で留まり、知っているという感覚が深まる事に、可笑しな感性が作られるように感じます。

これが「思いこみ」であり、実際の感覚を経たかの錯覚が増し、所謂頭でっかちが作られ、感覚を用いずバランスを崩した状態から、感受性の適正な姿と乖離した感性が生まれる。観測者と実務家とは、こうした点で体質や発想や感受性の質が異なり、自身による創り出す工程を重ねて生まれる知との違いが現れる。

管理型の仕事に就くまでの実際的な感覚工程を省略した職務領域の区分が生まれ、ホワイトカラーとブルーカラーとの感覚差が強まり、一貫的完結性を持つ多能工から部分的分業の協働生産へと及び現れる歪んだ面と映し出されます。

一次情報が下で在る事をどこか忘れたかの発想が、自己生産工程による知の自己化と離れ、頭脳の作業で留まり理解をしたという気に成る事の感性に、どこか健全な姿と異なる現代的な負の事象の根元の原因に捉えられ、感覚と頭脳の程良い循環から形成される感受性の相違へ連なり、歪んだ感性とそこから生まれる思考や行為の歪みと現れ、適当な外界との調和を崩す因果と映ります。

管理型志向の強まりは、この傾向の進行を強めた社会となり、体形の歪さと欲望の過剰さとなり、可笑しな正当性の論理を組まれ、適正調和を崩される。片手落ちの人間像を標準とした感覚が作られて一貫的完結性の人間像との異質さと現れる。

大量の二次情報と一次感覚の少なさというアンバランスは、生産的活動性を弱め、歪んだ感受性となり、健康像と乖離した感受性を備えられる。人間形成過程の良質な在り方を再考する必要性を抱かれる人々も少なくないかの想像が起こります。

こうした面が道徳とも密接に関わり、理想の人間像を背景にした個別教育プログラムが作られる。健康な人格の形成を目的にする教育における適正な創造工程が想定されて、良質な感受性が作られ教育の意義が向上する。過去よりの感性と未来型との志向性や、頭脳寄りと感覚寄りとの相違が、根源的な発想の異なりに及び、読んで学べと、やって学ぶという差が生じる。あまり法という曖昧な抽象原理に縛られて、自己の感性を窮屈にさせる事には良い感じは生まれず、法を自己正当化の道具に用いて優位性を作るという発想が浮かび、健康さに疑問が現れます。利益を作り利益を得るという生産の循環と異なり、利益を得るが先行し利益を提供しないという感度が、頭脳寄りの体質形成の負の部分と感じます。マスコミ、行政、政治家、弁護士という領域と、民間事業者という領域における差という大雑把な傾向則と感じられ、健康像については統一的な感性を揃える事が在って良質な感受性の厚みに連なり、ここに道徳の役割があるかに思います。

環境と人間

環境と人間

都市には、道路や鉄道が整備され、マンションや商業施設、オフィス施設となる高層ビル等が建設され、そこに入ると人間がやたらと小さい存在に感じられると同時に、その環境に適した型枠を自ら描き出し、それに沿った振る舞いを作られる。いつの間にかモデル像が描き出されて、上下左右の快適感覚が備わり、感性や発想、思考や行為へと連鎖し規則性が作られる。外界と主体との間で見る均衡感覚という焦点が生まれ、外界から大きな影響を受ける感性と外界へ大きな影響を与える感性か、同程度の作用を持つ均衡か等々の感性の相違が生まれる。

都市型の人間は都市施設から受ける影響が大きく人間を小さくさせる。地方型の環境は自然の中で包まれ人口化されていない環境との直接的対峙に在り感受性が溢れ、せせこましい発想から開放され人間自体に輝きが見られる。きっちりした規格を求める感性と発想の柔軟な既成型の知に縛られない感性とが、環境により影響されるか、感性が環境を作り出す。このような焦点を持ち、どんな欲望が生じるか、備えたいかを持って人間と環境を制御する思索が生まれる。

都市空間という面や道具の開発といったハードの面が、欲望や精神というソフトとの相互関係を持ち、人との関係形成の感度を創り上げ物性と理性の状態が現れる。言葉の作り方や用い方等に反映され、精緻さや機械的論理や情緒的表現等の感度に現れ需要の性格に及び生産の傾向というトレンドが生まれる。以上のように物性の感度はクリエィティブな創造性を萎ませ、情緒性は機械的論理を弱める関係性にも見受けられます。人間と空間、人口と自然、道具の特性等々の関係性を浮かび上がらせ人間と自然、人と人、個人と社会、使用者と労働者、行政と民間、高齢者と労働者層の良好な関係を創り上げる基本的視座が表される。

こうした概括観に対してどんな欲望からどこに焦点を定め、どのように持って行きたいかという人々の創造性が起こり方法が提起される。文化論の発想は大きな視野の中での部分という捉え方や、根源的な焦点に絞った普遍的・不変的な原理を表し大きな軌道の良好性へ関心が進み、全体安定性や健全な躍動性へのビジョンが作られ、感受性と感覚と頭脳の健全な健康体を基準にした応用の想像が生み出される。即効性の感度に健康体を標準にした一定の制御性を齎す作用が現れるかに思います。これらは平等感覚といった基礎的感受性に比重を持ち、その根源的な人間の性質を崩さない志向性が備わり出現する創造活動と言えるのかもしれません。都市環境に振り回されて人間側が弱まり、科学技術を用いるというよりも、科学技術に扱われる因果に及ぶ程、この基礎的感受性が脆弱になり異質な感性が進行して外界への力んだ姿と現れる。作ったものから作られる関係性を生み、主客転倒に及ばない調整感覚が人間の基礎的感受性に堅持されて適正調和が叶えられる。

積極的創造策と根源的感覚や感受性との相関を計り良好性を生むのに、利益と原理の概念から最良性が求められる所に、健康な心身という基礎的感受性による作用が現れる。物性や理性のいずれか一面の性格が進行する領域に見る正の面に、負の批評を与えて正の特性を弱めるよりも伸ばす感性にあって、全体としての次元が底上げされるビジョンを持つのが、寛容性と躍動性の概念から導出される。しかし、この根っこには基礎的感受性の所在が備わり良質な伸びと映し出され検証期間を経ながら調整作用が加えられる。これは、共生の概念から導出される。共生の概念が下地に備わり信義誠実な態度による自立と協調の良好な世界を意図した文化論と纏められます。こうした各種概念の解釈の差は、個々人の成長過程が基礎に成り、その一部として都市と地方の環境の差が起因し感度の相違を生むように映ります。これらの事が美性という概念で総合されます。今日的には、インターネットの世界が加速し時短感覚を促進する。リアルな感受性や世界観を小さく萎ませ感性の貧弱化に及ぶという負の面が浮かびます。

あらすじ

粗筋

理念とビジョンで領域が生まれ持続性の施策が展開される。ビジョンは技術と市場で表され需要者という限定性と生活者という要素が少なからず加わり、経済産業活動に政治行政という共通価値の因果を想定し、安定的な作用と健全な成長という欲望を抱くのが中長期の人間像を備えた重層性の構造と描かれます。

特定技術の作用に安定と健全を付加した軌道を持ち、各種改良や試行が繰り広げられ、実際の感覚や効用を判断するのに一定の時が要り、その検証を経ながら良質な創造事物への思索が重ねられる。

幾度もの検証過程を積み重ねられ、ごく当たり前の型式と浸透し、生活の一部として無くてはならい普遍性を帯びた性格に到達させる事が各領域の理念に含んで、共通的な秩序の厚みが生み出される。

生産事物に限定されず、法律や制度、有形無形の事物、思想等々の人間が生み出すあらゆる物事にこうした軌道の中に含まれて、磨きをかけられた良質性への探究が生み出される。こうしたビジョンで描かれるのが、文化という概念に価値を持つ人々の論理形成になり、一過性の欲望から耐久的な欲望の充足へと中長期に持続する提供事物へと行き渡る事が、真に人々の欲望を満たす不動的な感受性と充足に及び、付加価値の高い活動と認められる。

この過程で人間自体も成長し、その感性や行為に道徳というような模範的な好印象が浮かび上がり、自然と良いものには視線が送られ取り入れられる。

恐らくこのような感覚に違和感の少ない道徳観が生まれ、強要や一部の利益の獲得への犠牲的な操作に寄らない自然な感受性が進行すると思われます。観念先行か感覚先行かに関わらず、両者は同一の循環系に在り、幾多の検証を持ちながら次第に実際の質感が形成される。

平等思想の展開図という性格を柱にした道徳概念が作られます。道徳は自主内発性に核心がありこの性格を外さない概念の展開に在る事が人間性の実現という解釈に及びます。

そして、下限の制約と積極的創造と、両者を繋ぐ因果の想定や実感を考慮し、プラス要素の真価を高める思索が深められ、長期に渡る生産事物の型式が生まれ、文化への方法と備えられる。

前進の向きへと視線が定常的に備わり、予期せぬ下限への影響が生まれる事がある。という動態感を持つのが自然であり、下限の制約をはじめから超えるような行為は、健康な人間の姿にはなく文化の軌道と外れた負の存在という認識が固まる。この性格を持つ領域は価値がなくプラスの発想が常とされるのが自然でしょう。以上のような全体観を持つのが、日本文化原論の粗筋になります。