健全な自由主義と適用
基準と制御という物事を動かす基本的な方法と、水準の良質性という焦点が絞り込まれて、公平公正な運用が行われる。基準とする規定が、二次三次的な加工により創り出され、感覚的なゼロベースによる一次的な基準と離れる。過去事象の抽象集約から理論体系が作られ二次三次の原理が生まれ、そこからの発想を下にして個別を呼び掛け適用させる作業が生まれる。
原理は人々の感受性となる動機から、それを叶える方法の体系と固まり、それに忠実な適用を取る事が求められる。しかし実際は運用者の利益という私情が入り込み原理と適用の客観性を弱められる。この点が次第に慢性化して適正な基準の運用とかけ離れて、原理の意図する結果が生み出されない。或いは、原理自体が陳腐化して、形骸化したまま人的裁量で気ままな判断を取られ、私的利益を追求する結果、大きな利益を損ねる現象が生まれる。この2点が、基準と運用におけるマイナス事象と推察され、原理と運用者と第三者的な客観性を内蔵する仕組みが緊張感の持続に及び、適正な感受性の維持された運用を叶えられる。
慢性化された堕落状態に陥っては修復する事は容易でなく、程度を落とさないメリハリ感を持ち、的確な判断を後延ばしにされる事無く、健全な感受性に基づいた判定が望まれ、大きな影響に在る程にこの責任感覚が比例して、冷淡に振る舞えなければ大きな利益を損ない、この覚悟のない者を責任ある配置におけば甚大な被害へと拡散される。お友達感覚の弊害が生まれ原理探求型の感度が落ちて各人の私情が進み公の利益を損ない、自己生産規定の自覚の弱い姿となって多大な迷惑を与えられる。
大きな欲望を求める事に対して、責任感覚を持続させる事の出来る自己制御性の高い性格に在って大きな利益の実現が叶い、この性格は感覚的な積み上げ体験を経て血肉化された観念が備わり、感覚と観念の健全な適用を取る体質が作られる。原理の精神と離れて楽な方に逃げる判断が運用を歪め、保身型の流れで回り、器と人間の乖離という客観認識を取らずに自己正当化する発想がしばしば現れる。
机上の学問に偏重して単純な評価で判断を生み、人間の芯を創り上げる体験を軽視されるとこのような事態を広げられ力と責任の不均衡が拡大する。
健康な規則性は、感覚と観念を対人との交流から程良く回し、需給関係の緊張に在って、自他との適正調和を作る習慣により創り出される。規制による保護や特殊技術の保有から、一方向の力が強まると健全な感性が崩れて下限の善悪という制約にも鈍感になり適正なギブアンドテークの感覚も狂い、物性に依存した体質が固まり、暴走への歯止めがないとそのまま慢性化して大きな損失を齎せる。
基準を常に純粋な心持から上昇させる建設的なエネルギーを生みだし続けるには過剰なストックが弊害に成り制御可能な感性を下落させ、力の利用から力の依存となって良好な運用から離れ、利益を生まず利益を奪う主体性が生まれる。これらの改革には新鮮な感度を持つ主体によって違いを明らかにさせ、強い健康な感受性に基づく向上心による基準の更新によって体質改善への加速に及び、犯罪感覚への適正な感度を形成する事が初動に成り、制御感覚の健全な水準に在って、積極的な創造策へも良質な動機による強い論理が現れる。
抜け道や、小手先の発想が常態的な感性に染まった状態を戻す事は容易でなく、基準とする感性から適正な強弱による対処が少なからず要るのでしょう。大きな力を望むのであれば等しい責任が課せられる。この原理が持続的な健全性に不可欠となり、文化体系の柱に備えられ有機体の正常な動きと描き出されます。
下限の犯罪は一発アウトで在り、更生期間を持たせて工程を省略した分を課すことで適正な感受性が作られる。欲望に等しい対処が生滅不可分の原理を重んじた運用になって平等思想の実現と解されます。
誤魔化しは一切通じず他人を欺いても自身の事は自身が最もよく解り、その姿は鮮明に外界から察知され違和感の強い力んだ姿を見せられる。健全な感受性を堅持されてきた人々との相違は明瞭に現れ、社会の自然律として回る事で、ミクロの健康な感度からマクロの変革に及ぶかで、有機体の良質性へと進行する。大きな力の所から変える手順が適当なのでしょう。以上が健全な自由主義という原理に基づくマイナス面の改善策になり、これと同時にプラスが前面に現れると予測されます。
インフラの本質的な役割は適正な主体性概念を持って、身体の歪みを常に補正させる事であり、この基盤の堅持にエネルギーが投じられて前進面やプラス創造の弊害を取り除くという範囲が実際的な比重の高い役割に映ります。こうした人間像を描き出す事自体が積極的創造策の範疇になり文化活動からのアウトプットと配されます。
犯罪者は間違っても表には出てこられないでしょう。みっともなくて。