あれもこれもと安請け合いする事の罪悪感覚を抱かない所に、正常な感性を崩した姿が映ります。自身の技術と目的が絞り込まれず、過剰に広く浅く首を突っ込み、何がしかの口をはさんで実効力への拘りが及ばない事が、過剰な力と責任感覚のアンバランスという認識になり、管理志向型の規則性に多々見受けられる。
特定の課題解決型の動きや、立脚する中心的な観点が弱く、ここから効力や実施力といった効用を果たすエネルギーの集中を見せずに、いいとこ取りを意図するかの発想の不健全な搾取志向ともいう行為には、利己的体質を露わに見せる。
こうした行為や規則性が一部の政治やマスコミ、評論家の感性となり、モラルの脆弱な悪性の秩序を広められる。程良い検証の機会を受ける構造にあって、適当な仕事の範囲を限定して、過剰な安請け合いのような首の突っ込み方を抑制して、領域を絞った効果への拘りを果たす筋肉質な行為に在って、健全な精神と身体の動きに成り、適当な感受性を持つ主体性と映し出される。
システムと人間の調和や、権限と責任の均衡、感覚と観念の適正等々の観点による健康像の実感という表現が、文化という観点からの適正調和を表す実感規定と掲げられて、
上述のようなあれもこれもという過剰な安請け合いに制御がかかり、共生感情を示す事になる。自意識過剰や自己陶酔型の感性が、自己生産技術の意識を曖昧にし、効果を上げる責任感覚が離れ、自己を見失った利権への過剰関与型の行為と現れる。
これが別の言い方をすると盗みや詐欺という行為に近く、頭と体の分断した不健全な感受性と表される。この姿が意外に多く見受けられ、どこか健全な歩みを外した客観性を崩された姿と知覚され、日常的な観点から浮かぶ不調和を感じる焦点と上がります。
原論先行型の社会秩序が、薄く浅い一過性の創造を進行させ、核となる自己生産技術の形成を弱め、あれもこれもとつまみ食いする評論家やマスコミ、政治家という人々を生む傾向には、良質な感受性を崩される下に成り、独自の主体性を追求し尊重する秩序の在り方に健康な成長軌道が現れる。
当方の文化活動という立脚点からは、こうした焦点が目につき、ミクロ的事象からマクロのシステム改良への契機となり正常な姿への是正へ進行させる事に働くと思います。
過剰な管理発想が進む世界には、健康な感受性と離れた感覚が増進され、フラットな感性を壊した無自覚の犯罪が現れる。盗みや詐欺という行為の自覚の及ばない可笑しな感性にストップをかけ、根源的な層からの共生や自立の観念を持ち、物事の悪性を把握する感受性を作るのに本書の文化論が有効に思えます。