人格の根幹的な揺らぎ

5)人格の根幹的な揺らぎ

このような理想的な観念図との相関から浮かび上がる今日的な社会問題の視点を取り上げます。

サイバー犯罪が取り上げられない日はないほどに社会問題化している。個人情報を不正に入手して名簿屋などに販売するか、直接業者が買い取って自社製品の販路の拡大に繋げるか、論文内容を入手して知恵やノウハウを許可なく盗み用いるか、特定個人の考え方を観察し行動を予測して事前型の対処策を講じる等、パソコンとインターネットという道具を介した中での直接的な関わりのない者による不正介入と情報の盗みといった事象であり、情報技術を用いたまともな対人形成を行わない特異な感受性を持つ者による迷惑行為とでもいう規定が生まれる。

直接この行為に取り掛かるものと、間接的に依頼するものとが想定され、何れに於いても人格の欠陥による典型的な技術の悪用と思われます。

軍事的な科学技術の直接利用というこれまでの性質とは異なり、堂々と身元を明かして対立の手段に用いるものでなく、主体性を明かさずにこそこそと不正を働く所に特徴が現れ、寧ろ後者の側に質の悪さが感じられます。対人上の衝突を堂々と行う事はある意味で健康な関係形成の筋道で在り、正体を明かさずに迷惑を及ぼせるたちの悪い性質であり人間の根深い所に及んだ精神性の病理現象という捉え方が正しいように思います。

単なるコソ泥という扱いよりも、変質者や異常者という認識で捉え、社会公共的な観点からの深刻な人格問題と位置づけ、悪性の程度の認識を改めた対処策が相応しいように思います。堂々とした関係形成を出来ない姑息な手法を、これ以上進める事無くタガをはめる事が重要であり、精神面のひ弱さに起因する力の不正利用は、社会生活の根本的な健全性を狂わせるものであり、この認識を持った緊急対処策を必要にする事柄なのでしょう。

このような原因の捉え方から、各種の社会事象として問題視される事の根源的な意味合いが浮かび上がり、他の事象とも共通して備わる人間の根本や骨格形成上の歪みが顕著に表出しており、これらを生みだす原因の考察と改革を取るべき段階に感じられます。経済の上昇のみで賄えるものでもなく、社会システムの不均衡や、教育や文化という中長期性の悪性問題としての改革が必要に思います。

4)集団協働活動

4)集団協働活動

責任ある立場がみっともない振る舞いを取れば、その下に就くものは指示命令をまともに受けず事実上の組織体制は崩壊する。これが集団協働行為の原理に成り、信頼性の瓦解から集団の力は発揮されず、存在自体が悪性の影響と転化する。士気が下がるばかりか、恥の連鎖事象という二次三次の被害の拡大を齎しどこかで防ぐ役割が生まれて修正への兆しが生まれる。このような自然律が回って健康な心身が維持され、自浄作用が働かない原因を特定し的確な変化を投じて再生への道が進み、因果関係の最も本質的な事柄へと着手をして抜本的な刷新が生まれる。

この論理に於いて、文化論という根源性への問いは、正しく人間の欲望や体質、規則性への焦点を持ち、健康な心身という理想の人間像と現況の姿を比較して負の特定から改善案を導出し目標の実感点を設定して、事象の到達を図りだす行為に成り、物事の源泉からの改変による根本策という性格に在る。個々人の健全性を根にして、集団の在り方にも適用し、地域や国家、国際社会という広がりへと連鎖する。感覚的な所から対象範囲の広がりへ繋げるアプローチと、大枠の仕組みから改変を作るアプローチが生まれる。実際の進行には、全体観という観念図面が表され重層の工程を作り、感覚側との実感を経ながら観念図面の修正を繰り返し、しっくりくる人と仕組みの規則性へと及ばせるまでには相応の循環体験を重ねて、頭と体の有機性が作られる。観念図面の形成と感覚的な運用工程による実際感覚で、事実や価値を感じ取る活動と描き出される。健康像とそれを認識する実感規定と実感の事実認識で実態という方程式が描き出される。観念図面を考える事から、発表する段階、其々の議論を交わす段階、大凡の合意を取る段階、出来る所から実際に進める事という進行に在るのが実際の創造であり、頭と体を動かしながらピタリとくる感覚へと到達させる活動の基本形が示される。妙な局所の立場から作為的に流れを留めて、進行を停滞させる動きが生まれないように統括的に全体を見渡し、阻害因子への対処を取り進捗が図られる。その適正な判断と支持に力が備わるには純粋な理想図への忠実な姿が不可欠になり、堂々と不信を招かない透明性が求められる。みっともない人間像という認識に及べば力は離れて指示命令系統を失う。原理による納得感が基本に成って物事が進められ、物理性での強要に偏ると、根本からの自主的な力が生まれずに、受動的な相互対話による消極姿勢に陥り、分断感覚の下に形式上の進行が成される。指示命令と相互の納得感の検証が積み重なり、能動的・建設的なエネルギーが回る状態が主体性ある活動を生み、生身のエネルギーの持続性に及ぶ。物性の感度が進行して強要性が強まり活発なエネルギーを伏せる事へと陥るのは、人間との体験の少なさか、機械的な感受性の退化か、組織員の怠慢か、世界観の取り方の異同等々が浮かびます。

2)真理の道

 

絶対的な肯定感覚を抱ける世界観の描写に何者にも左右されないエネルギーが投じられる。自己の直接的な利益追求図面からはこの感覚は生まれず、社会奉仕性の図面と自己認識から生み出される方法論に、迷いの少ない真っ直ぐな反応が現れる。これを人間の根源性の高い観念で示すと、共生感情が根に成り信義誠実な態度が作られ、強い肯定的躍動のエネルギーを生む動線と生じて普遍性を伴う事象が生み出される。真理という感覚を掴むのはこの規則性の持続によって近づき、抜け道や横道に逸れないで進んだ過去の軌跡とそこでの失敗や成功の体験がエネルギー源となり、後ろめたさの無い歩みを積み上げた実績が自己への信用を創り上げ、未来への強い軌道を選び出し、その繰り返しから絶対性の肯定図面が体内に浸透し基軸の太い真理の世界を描き出される。安直な方法に逃げる感度に慣れて、楽な方を選ぶ規則性が常態化され自己に自信が積み上げられず、受動的な世渡り感覚が進む事には、真理を感じ取る嗅覚が壊れ物性の感度が浸透する。人間側の意思が痩せ細り、外界から支配される窮屈な感受性へ陥り心の豊かさが萎むように思います。こうして出来た体質を前提にして、対象を選び対象の事実が作られ、そこへの感度が生まれ方法をつくるという過程が現れる。知らず知らずのうちに、自然形成的な反応に及び、それについて正しいという体質からの肯定感に進む。文化論的には、逃げ癖や負け癖の姿と映り、健康な心身に在る姿と離れた人間という認識が生まれます。理想がどんどん下がり、現実への感度が萎み、活力の弱い思索や発想が生まれ積極的な本筋の軌道を外した創造工程に慣れ、それに満足する感性に及び創造のクオリティーが規格化され標準感覚が作られる。どれが正しい等と人様を評価出来るような事にもありませんが実態的な人間の姿としてこうした因果関係に映し出されます。社会環境という大きな支配的秩序が生まれ、その中に溶け込む場合と反発を生みだすべき所が現れ、あまりにも物性による人間性の崩れに及ぶような事には、然るべき反応を作り出して行きたいと思います。その理性的な判断の基準が文化論という形で作り込まれます。

創造のクオリティー

 

メーカーにおける物づくりの感性をベースに於いた創造観念を形成する事に、感覚と観念の離れない健全な感受性を持つ人間が生まれる。顧客の要望と供給側の生産能力とを計り、両者の需給を刷り合わせて製品とコストが設計され、「何を、いつまで、いくらで」という約束が生まれる。それを満たさなかった場合の損失への対処策までも含めて、内容が取りきめられる。

製品の構成は、素材からそれを加工した精製品、更に部品、高度な技術を持つ部品、部品の組み立て、といった加工度や特殊性能、点数の多少で示される。複雑な要素の構成で完成品とする場合には、いくつもの部品について、「何を、いつまでに、いくらで」という仕様書が複数出来上がり、部品を入手するタイミングも事前に計画されて、同時並行の全体工程として把握される。一つの部品の納期が遅れると他の作業が滞り全体の計画に影響して、最終完成品の納期が満たされずに約束を破る結果を生む。

このような生産感覚を無形の知的創出にも反映される事で、無形財の質や精度への感覚が生み出され、事実や価値、方法といった概念の厳密な規定に及び、責任意識の高い物事が生み出される。いくつもの工程からなる協働生産感覚の弱い、虫食いい的、場当たり的、無責任的な創造は、有形の生産事物の生産工程体験をベースの感覚として保有する程に予防され大きな図面とその実現工程の確かな運びへの意識が高まり協働生産性の感覚が内蔵される。一つの工程の停滞が全体へと波及し大きな損害を齎せる。システムと各所の工程と人の活動により、完成品を創り上げる協働作業の体験を経て無形品の創造へも良質な感覚が備えられる。生産の基本は、有形物を創り上げるメーカーでの生産工程に在り、ここを基礎にした創造活動である事が健全な感受性を作るのに適当に思います。断片性、静態認識、価値観の押しつけ、過剰な対象化、思い上がった犯罪への鈍感性等々の不快事象はこの感覚の弱さから生まれ、責任感覚の弱い、約束の鮮明でない、恣意的な行為が生み出され、粗雑な人間が生み出される。社会像や人間像という言わば大きなシステムの形成感覚は、物づくりの協働生産の感性を基礎にして、一つの工程の過失が他への損失を齎すという共生感情を作り、各人の責任感覚や工程へのプライドが培われる。個人化の進行やサービス経済化という事象の進行から、協働生産感覚が薄まり創り上げる物事や観念の空疎化や粗雑化を生み不快感が生み出される。言ったもの勝ち、言っただけ、一過性、表層的、外観的、内外の乖離、物性依存症等々の内実の弱まりや実際性の形骸化が進行する傾向には、犯罪感覚が弱まり程度の悪い世界観が作られる。

伝統的基盤の堅持

 

現代の日本社会に於いても人権感覚は当たり前の常識に映し出され、この点に於いては世界の常識と概ね整合感が生まれているように見受けられます。しかし一部の政治家や行政人に於いては未だこの感覚が脆弱であり民間の個人や法人の活動を軽視して思い込みの激しい傲慢な行為に感じる事も少なくない。家父長的な感性を全く否定する事もありませんが、盗みや詐欺、傷害といった大勢の意思として固められた下限の不快行為については、如何なる場合も超えてはならない制限であり、権力や財力に過度な依存と思われる意識から、これを安易に見失い盗み等に及ぶようでは何を目的にした活動であるのかに疑問符が浮かび上がる。公の利益等という曖昧な表現も現代の理性水準にあっては限定化され抽象原理と実際の行為の解釈や適用からどんな利益を意図した行為かを鮮明に描く必要が生まれる。しかしこの積極的な利益の生産を問う以前に下限の犯罪は無条件の制約と解釈するのが万人の感性に思われます。下限の制約と積極的な創造策とこの間に伝統的な感受性が備わり両面の因果の実感を取り全体的な世界観の描写が生まれる。積極策が必ずしも良い影響ばかりではなく、下限の行為を発生させる作用も少なからず抱き、両面への視線を持った前進性の施策を作るのが普遍的な人間の理性を示し、この基盤的感性が人々との共生感情の実感と映ります。下限の制約行為は、この全体観の中で映し出される事と因果関係の弱い暴走や気の狂いからの発生という見方が生まれますが、いずれにしても明瞭な一線を持つ不快事象はどんな因果や立場であろうとも超えてはならない不動の基準という解釈にあります。この感性が標準にも思われますが、違う感覚を抱く人もいるのかもしれません。私から見ると内向き体質から権力に依存した暴走行為であり、この性質を持つ者が実態的な性格を隠して表面を良く見せるような表現を取るようでは、尚更、日本の恥さらしという認識に及んでも致し方ないように思います。下限を超えて公益等という判断に及ぶ事はなく現代人には許容されないのでしょう。みっともない日本人を作る事無く、堂々とした文化基盤の強化が在って、イメージと実態の合う人格が示される。個々人のミクロ感覚を壊してはマクロの操作等を行う要件に無く、人格の欠いた積極的な創造策に正当性は与えられないとするのが現代の主流派に感じます。人権概念の専門家の意見も伺い適当な軌道を創る事が一人ひとりに課せられる責務に思われます。個人的な異質性で日本人の良識を下げる事無く、表面と実態の開かない伝統的に培われた優れた調和性を失う事のない健全な心身の持続に重要な価値観が抱かれます。

哲学観

 

哲学の指導者には、解釈の専門家と体系の形成者という2つの類型に大別され、各人が自主的に専門哲学者の体系に興味を持ち、その理解に有用な作用を齎せる専門家と、自身の感覚性の体験を根にして創り上げた体系を説明する専門家という区分が生まれる。

専門研究者という性格の哲学概念を頭脳的に深める事も、まったく無意味とは思いませんが、感覚工程を経ながら自身の体系を創り上げる事に実際的効用が生まれ、筋の良い根源観念を如何に少なく集約し、短い時間で読み込めて、感覚的に深い実感図面がイメージされるかに、この分野の優劣基準を備えて領域の方向性を定める事が、実社会への意義を齎せると感じられます。

このコンセプトに沿った哲学が『日本文化原論』であり、特定の哲学者の難解な表現の解釈に時間を充てるような事よりも、洗練された骨格概念と集約した体系を大づかみに捉え、生涯をかけて自らの体系を創り上げるスタンスを想定した哲学基礎教育として、講座を設ける事が、感覚体験と頭脳の程よい循環性に及び健康な感受性が創り出されると想定されます。

真理を意図して読解に時間を費やす事は、真理と離れた作用を齎し、幸福感や健康を意図して哲学を身につけるのであれば、最低下限の良質な根源的な筋道を入力し、体験型の原理創造に比重を取った活動性を持つ事で健全な心身が生み出される。

哲学という根源観念は、こうした想定の中で、体験と共に次第に深まりや完成度の上昇に及ばせる個々人の個別的納得感の形成に、良好な作用を齎せる為の必要最小限の観念として提供するのが、需要者にとっての真価に思えます。未来創造型の人間観に軸足を取った哲学観や教育観という方針で描かれます。

誠意ある創造

 

既得権と改革志向という言葉がしばしば謳われる。今日よりも明日へと目前の仕事に対面され、市場と技術の構造に真摯な取り組みを持ち、良質性を意図されるのが多くの人々の健康な姿に成る。このミクロの感性とその拡大で中局的な構造も創り出され、システムの目的と手法の健全性にある事によって、個人と社会の基幹動態が形成される。

単純化すると、この論理と実際の活動に在る事が改革志向を表し、下限の制約を遵守し、個別の積極創造策に尽力する姿に健康な心身が宿る。個別の積極策においては、堂々と市場との対話を持つ為に、自己の技術を掲げられ、一定の中立尺度と適用の公平性を保ち、公明正大な外界との関係への軌道が創り出される。この図式から逸れた行為に在る人々が、悪い意味の既得権者という認識が作られる。成すべき期待と行為とのマイナス的なギャップという判定を受けられる姿であり、過分な評価や過剰な力の不均衡が健康な成長軌道の停滞や阻害に作用し、局所の利益に偏して不正な行いにエネルギーを投じる社会のお荷物と特定される。こうした一定の規定を描き出して、変化や改革という言葉を用いられる所に、正しい理性的な具体策が創り出される。この論理を根源的に創り上げるのに健康な心身のモデルが示されて、更に限定性を持つ適正な尺度の形成へと展開されて、標準とプラスとマイナスの構造が描かれ、プラスを伸ばしマイナスを削減する一連のストーリーを客観的に示す事により、理に叶った改革案が纏められる。下限の行為はそれ自体が迷惑行為に成り、この改革には比較的単純な論理でシステムの強化策が作られ、積極的な創造策には、相対性の感性による論理の多彩性が生まれる。更に両面の因果という動態面の論理が描かれ、全体の良質性へのシナリオが生まれて、完結性の高い理想画と方法の枠組みが表される。変化や改革という言葉ばかりが踊り、何をするのかの中身が鮮明化されずに、善人を気取るような事では、その行為自体が下限の制約に触れ悪性を招かれる。このような尺度を持つのが、健康な心身を持ち合わせる人々の論理であり、大きな欲望を抱かれて力を得ようとする行為には、明瞭な体系の創造が要り、論拠の確かな改革や変化という言葉に至って、力強いエネルギーが寄せられる。既得権というキーワードがやけに目立ち内実の深さと幅の構成されない扇動的な行為には、騙される事のない理性の水準を備える事に本書の根源性と全体形成の作法が有用な道筋に思われます。程度の悪い政治家やマスコミの断片的な論拠の弱さには付き合う事無く内実を賢明に計り出し一般社会への良質な対話に連ねる各分野の誠意ある専門家の役割に期待が寄せられる。

社会の根源基盤の健全性

 

反省という行為は、被害の状態によっては、損害を賠償して場合によっては刑事罰に課せられて、その姿が実感される。これがないと子供扱いか、犯罪者として実質的な認識が生まれ、それに相応しい取り扱いが生まれる。

現代社会状況は、この反省という言葉と行為の実感に踏み込んだ強要にまで及ばないと自身で行為に現れない程の人格破綻と見られる人間が少なくないようです。この物理依存症や他律受動性の体質が進行する事では、社会は成り立たず、事実上の姿に基づいて関係を作る自浄作用の進まない事が大きな欠陥になり、インフラ自体の機能不全が深刻な状態に見受けられる。

ごく一部の層に相当する事と思われますが、物理性の影響力を持ち、それに依存して責任意識が壊れ、そればかりか下限の法規制の感覚も可笑しいのでは、直ちに強制対処するのが適当に成り、この遅れが致命的な人間崩壊の道へと深められる。法がまるで実効力を持たず、物性の原理ばかりが浸透し、自律的な制御反応が取られない事に在っては、強要的に隔離するのが適当であり、その判断力が乏しいような感覚が生まれます。

管理監督責任者へ求められる水準に至らず、けじめのつけられない子供が形上の力を持ち、行使されずに箍の外れた感性が修復されない。このような過不足が問題であり永年の時をかけ作られた価値が瓦解する。

反省の取り方の妥当性を計り、その判断力に根源の感受性が検証される。何かの貸し借りから配慮を加える事柄と、粛々と執行すべき事柄とを間違えない切り分けが生まれる。

このメリハリ感覚がない人間には、力を与えない事が必然となり、この判断を間違わない感性が自他の調和に欠かせない制御装置となる。

犯罪は、それ以上でも以下でもなく、齎せた被害に対する真摯な弁償を行って、誠意ある人格の実感が生まれ、これを取れないうちはいつまでたっても体質は改まる事無く、同じ繰り返しを生みだされる。実質的な行為として検証されないものでは、お飾りの観念体系が宙に浮き、正しく頭と感覚の分断した感受性の崩壊という実感が進む。

万人共通の理性基盤を堅持する事なしには、病的な一部の感性が留まり、健全な軌道を阻害する。これから逃げる事のないシステムの基軸強化が求められ、これが脆弱な事から、犯罪者がぬけぬけと放置され、まともな正論を吐くような醜態が現れる。これらの認識が弱い主体性には、間違っても基幹に備える事無く、相応しい人格と影響力に合った配置が執り行われ、個別性の適正な対応に及び、全体調和性が叶えられる。

欲望過多で、責任不足に陥る事のない感度の実態が健康な心身を表し、他律ではなく自律した振る舞いにあって、主体性が確認される。他者からの指摘を強めないと自ら動けない受動性の進行という事象が、文化の中心焦点となり、水準が常時計られ、許容値と基準の制御という活動に及び、背骨の曲がらない体質が創り上げられる。

この観点を欠いた創造はあり得ず、絶対性の原理と固め、出来そこないを作らない人間社会への施策が一丁目一番地の焦点になる。積極的創造策に対する負の事態を抱えない適時適正な反応が良質な気流を弱めない必然反応となるのでしょう。

常識感覚の形成(健康な心身を表す基準図面)

善意ある感受性を持つ主体性の態度というものが抽出される。表現行為に際してこの構えが自然に現れて聞く側見る側との良好な対話や交流が生まれる。

  1. 表現は自己の欲望と共に外界への利益を含んで両者の利益に及ぶ。
  2. 自己の欲望を示す事、これが基準概念となり表現を創出する意図の限定性が生まれる。
  3. この絞り込みを持ち解釈の多様性を回避するのが、誤解を与えず、建設的な発展を意図する態度と示され、善意の中身という実感が生まれる。

大きな影響が想定される表現に至るほどに配慮が現れて、力と責任の均衡という状態になり快適性が生まれる。この感受性が人々との共生感情を根にした自己実現行為となり、この根源に生命への尊さを抱く畏敬の念という感性が配される。生命観が土台に成り主体と外界との関係の原理が生まれ世界観に連なる。その世界観が個別の行為に制約を課し自他との適正調和の形成を齎せる。そして、個々の感度や解釈の仕方に異同感覚が生まれる。著しく離れない為に動機や背景、沿革、理念という自己規定を予め示す行為が取られその上で個別の表現が配され、基準尺度と個別の一貫性を取る所に適正調和の構えが生まれる。下限の制約と積極的な創造との間に、健康な心身の構えが生まれて、生を生みだす配慮を持ち生への責任感覚が現れ、対象との良質な相互表現行為に連なる。力の利用と健全性という指針が組まれ、不快の予防と快適の増進へと進み、消極的制約行為の回避と積極的生産性への軌道が創り上げられる。表現者に善意ある感受性が弱いと、対象へ粗雑さや力での強要性や傲慢さと知覚され各種の不快感情が示される。

下限の制約を超えて力を獲得するという行為は、これ以前の水準であり、力の制御どころか力を持つ事自体が許されない平準以下の振る舞いとなり、即時の配置換えや緊急の対処策を投じる性格の事象であり、堕落した感性を野放しにする判断は、これを管理監督する立場の責任放棄となり、二次的間接性の視野を含んで事柄の認識を取り、適正な改善に繋げる必要が生まれる。人格上の欠陥や未熟さという指摘に及んでも可笑しくないように思います。理性と物性の健全な関係を持つ行為に健康な人間像が示されて、優先順位という序列感覚に具体的な姿の認識が生まれる。このような人間側へよった注視と創造が、倫理道徳や文化論の主領域に成り、外界認識や創造を成す上での構えへの探究が表される。根源の善意ある感受性から適当な動態論理が組まれ全体が浮かび、主客を合わせた人と人と自然の調和への道が描き出され規律ある安定と繁栄の規則性となり、同一感受性の形成によって人間概念が作られ個別行為に反映され、質と量の定期更新によって持続的成長と解される。あまりにも原論先行型の人間形成が進む事には違和感が生まれる面が多々生じますが、多様な志向や個々人の欲望追求性が高まり、力が備わるほどに、こうした面への規定を考える事もニーズとなり有用性が生まれるように思います。

絶対性の基準

(共通)

準絶対性基準

(根本)

相対性の基準

(個別)

下限の制約 基盤的な創造世界観

文化ビジョン

積極的創造策
盗まない

嘘つかない

怪我を負わせない

認識や創造の型(p19 )を持ち、相対的な創造の展開を取る事が持続的成長への道と想定され文化という観点の形成領域が生まれる。 何かをして上げたい

困っている人を助けたい

役に立つ事を行いたい