4)集団協働活動

4)集団協働活動

責任ある立場がみっともない振る舞いを取れば、その下に就くものは指示命令をまともに受けず事実上の組織体制は崩壊する。これが集団協働行為の原理に成り、信頼性の瓦解から集団の力は発揮されず、存在自体が悪性の影響と転化する。士気が下がるばかりか、恥の連鎖事象という二次三次の被害の拡大を齎しどこかで防ぐ役割が生まれて修正への兆しが生まれる。このような自然律が回って健康な心身が維持され、自浄作用が働かない原因を特定し的確な変化を投じて再生への道が進み、因果関係の最も本質的な事柄へと着手をして抜本的な刷新が生まれる。

この論理に於いて、文化論という根源性への問いは、正しく人間の欲望や体質、規則性への焦点を持ち、健康な心身という理想の人間像と現況の姿を比較して負の特定から改善案を導出し目標の実感点を設定して、事象の到達を図りだす行為に成り、物事の源泉からの改変による根本策という性格に在る。個々人の健全性を根にして、集団の在り方にも適用し、地域や国家、国際社会という広がりへと連鎖する。感覚的な所から対象範囲の広がりへ繋げるアプローチと、大枠の仕組みから改変を作るアプローチが生まれる。実際の進行には、全体観という観念図面が表され重層の工程を作り、感覚側との実感を経ながら観念図面の修正を繰り返し、しっくりくる人と仕組みの規則性へと及ばせるまでには相応の循環体験を重ねて、頭と体の有機性が作られる。観念図面の形成と感覚的な運用工程による実際感覚で、事実や価値を感じ取る活動と描き出される。健康像とそれを認識する実感規定と実感の事実認識で実態という方程式が描き出される。観念図面を考える事から、発表する段階、其々の議論を交わす段階、大凡の合意を取る段階、出来る所から実際に進める事という進行に在るのが実際の創造であり、頭と体を動かしながらピタリとくる感覚へと到達させる活動の基本形が示される。妙な局所の立場から作為的に流れを留めて、進行を停滞させる動きが生まれないように統括的に全体を見渡し、阻害因子への対処を取り進捗が図られる。その適正な判断と支持に力が備わるには純粋な理想図への忠実な姿が不可欠になり、堂々と不信を招かない透明性が求められる。みっともない人間像という認識に及べば力は離れて指示命令系統を失う。原理による納得感が基本に成って物事が進められ、物理性での強要に偏ると、根本からの自主的な力が生まれずに、受動的な相互対話による消極姿勢に陥り、分断感覚の下に形式上の進行が成される。指示命令と相互の納得感の検証が積み重なり、能動的・建設的なエネルギーが回る状態が主体性ある活動を生み、生身のエネルギーの持続性に及ぶ。物性の感度が進行して強要性が強まり活発なエネルギーを伏せる事へと陥るのは、人間との体験の少なさか、機械的な感受性の退化か、組織員の怠慢か、世界観の取り方の異同等々が浮かびます。

2)真理の道

 

絶対的な肯定感覚を抱ける世界観の描写に何者にも左右されないエネルギーが投じられる。自己の直接的な利益追求図面からはこの感覚は生まれず、社会奉仕性の図面と自己認識から生み出される方法論に、迷いの少ない真っ直ぐな反応が現れる。これを人間の根源性の高い観念で示すと、共生感情が根に成り信義誠実な態度が作られ、強い肯定的躍動のエネルギーを生む動線と生じて普遍性を伴う事象が生み出される。真理という感覚を掴むのはこの規則性の持続によって近づき、抜け道や横道に逸れないで進んだ過去の軌跡とそこでの失敗や成功の体験がエネルギー源となり、後ろめたさの無い歩みを積み上げた実績が自己への信用を創り上げ、未来への強い軌道を選び出し、その繰り返しから絶対性の肯定図面が体内に浸透し基軸の太い真理の世界を描き出される。安直な方法に逃げる感度に慣れて、楽な方を選ぶ規則性が常態化され自己に自信が積み上げられず、受動的な世渡り感覚が進む事には、真理を感じ取る嗅覚が壊れ物性の感度が浸透する。人間側の意思が痩せ細り、外界から支配される窮屈な感受性へ陥り心の豊かさが萎むように思います。こうして出来た体質を前提にして、対象を選び対象の事実が作られ、そこへの感度が生まれ方法をつくるという過程が現れる。知らず知らずのうちに、自然形成的な反応に及び、それについて正しいという体質からの肯定感に進む。文化論的には、逃げ癖や負け癖の姿と映り、健康な心身に在る姿と離れた人間という認識が生まれます。理想がどんどん下がり、現実への感度が萎み、活力の弱い思索や発想が生まれ積極的な本筋の軌道を外した創造工程に慣れ、それに満足する感性に及び創造のクオリティーが規格化され標準感覚が作られる。どれが正しい等と人様を評価出来るような事にもありませんが実態的な人間の姿としてこうした因果関係に映し出されます。社会環境という大きな支配的秩序が生まれ、その中に溶け込む場合と反発を生みだすべき所が現れ、あまりにも物性による人間性の崩れに及ぶような事には、然るべき反応を作り出して行きたいと思います。その理性的な判断の基準が文化論という形で作り込まれます。