現代の日本社会に於いても人権感覚は当たり前の常識に映し出され、この点に於いては世界の常識と概ね整合感が生まれているように見受けられます。しかし一部の政治家や行政人に於いては未だこの感覚が脆弱であり民間の個人や法人の活動を軽視して思い込みの激しい傲慢な行為に感じる事も少なくない。家父長的な感性を全く否定する事もありませんが、盗みや詐欺、傷害といった大勢の意思として固められた下限の不快行為については、如何なる場合も超えてはならない制限であり、権力や財力に過度な依存と思われる意識から、これを安易に見失い盗み等に及ぶようでは何を目的にした活動であるのかに疑問符が浮かび上がる。公の利益等という曖昧な表現も現代の理性水準にあっては限定化され抽象原理と実際の行為の解釈や適用からどんな利益を意図した行為かを鮮明に描く必要が生まれる。しかしこの積極的な利益の生産を問う以前に下限の犯罪は無条件の制約と解釈するのが万人の感性に思われます。下限の制約と積極的な創造策とこの間に伝統的な感受性が備わり両面の因果の実感を取り全体的な世界観の描写が生まれる。積極策が必ずしも良い影響ばかりではなく、下限の行為を発生させる作用も少なからず抱き、両面への視線を持った前進性の施策を作るのが普遍的な人間の理性を示し、この基盤的感性が人々との共生感情の実感と映ります。下限の制約行為は、この全体観の中で映し出される事と因果関係の弱い暴走や気の狂いからの発生という見方が生まれますが、いずれにしても明瞭な一線を持つ不快事象はどんな因果や立場であろうとも超えてはならない不動の基準という解釈にあります。この感性が標準にも思われますが、違う感覚を抱く人もいるのかもしれません。私から見ると内向き体質から権力に依存した暴走行為であり、この性質を持つ者が実態的な性格を隠して表面を良く見せるような表現を取るようでは、尚更、日本の恥さらしという認識に及んでも致し方ないように思います。下限を超えて公益等という判断に及ぶ事はなく現代人には許容されないのでしょう。みっともない日本人を作る事無く、堂々とした文化基盤の強化が在って、イメージと実態の合う人格が示される。個々人のミクロ感覚を壊してはマクロの操作等を行う要件に無く、人格の欠いた積極的な創造策に正当性は与えられないとするのが現代の主流派に感じます。人権概念の専門家の意見も伺い適当な軌道を創る事が一人ひとりに課せられる責務に思われます。個人的な異質性で日本人の良識を下げる事無く、表面と実態の開かない伝統的に培われた優れた調和性を失う事のない健全な心身の持続に重要な価値観が抱かれます。