文化感覚

学校のホームページを見ていると学長さんが素晴らしいご挨拶を成されている。でも、文字が多くて、それが一つのストーリーに回らずに、言葉が躍っている印象を少なからず持ちます。その学校の求人案内に目を通すと、ご挨拶と対外的に向き合われる姿勢や態度に大きなギャップを感じ、この辺りに学校や教育者に対する不快的な感情が現れる。頭と感覚のバランスを崩した表現への違和感を持ち、一般的な生産者との感性の違いが顕著に現れ、理念と実施工程の循環性の弱さと映り、度々の衝突が予測される。

言う事と実際行為との整合や実感性の違いが不協和の原因になり、各種領域の感性と領域間の相違からギャップが生まれる。或いは経営者と従業員という相違から感覚の違いが作られる。この横の動きと縦の感度という構造から感受性の作られる因果が浮かび、異同の理解や許容が生まれる部分と、あまりに離れた部分への不快に対して平準性への作為が生まれる。

このような教育産業の性格が、法律や政治、マスコミの世界にも同様的に映り、言論表現と実際行為の乖離に正常値と外れた感覚が生まれ、これが中局的かつ長期的な構造上の問題と感じます。高らかに良く整理されない理念を謳い、文字ばかりが踊り何が言いたいのか良く伝わらず、感覚工程を経ないで生まれる表現と推察され、そこから何を学ぶ事があるのかといった評価に及び、上物が妙に煌びやかで内実の薄い実態が知覚され不快感と現れる。人間形成上の誤りのような感覚が生まれ、この部分に犯罪体質という言葉が当てられる。

教育や政治という改革への中心焦点と浮かび、又は、物理感覚の浸透された経済人から生まれる短変数の感受性という両極に対しての違和感が文化という観点を備えると鮮明化される。つまり、文化感覚は汗水をたらして言行の整合に快適を抱かれる人々の通常的な感性であり、この質の違いを問題とする事は正しい改善の焦点になり、立派な挨拶と運用の違いや、言葉が行為の循環として伝わらない不快感覚は、正常な活動に在る人々の自然感性から現れる。

単語自体は沢山の種類を使われているようですが、全体の有機性がまるで弱く、バラバラの文章を見せられても何も響かず、これに陥らない健全な心身を持続する活動として、本書が作られました。