犯罪を見て、それに立ち向かわない性質は、大きな利益を望む要件に無く、適当な欲望と責任の範囲が自ずと浮かび上がる。自己の性質は自己が最も良く解り、マクロ観点上から見て望まれるであろう力の質量と、自身の立ち居振る舞いとの客観認識を持ち、過不足の認識が生まれる。
積極的創造策への初動的な視点が、この自己の性質とマクロの観点との比較で在り、これを外して物的欲性から、力自体への志向性をもつ事は長期的には×がつき持続的な成長の足枷となる。他者からの指摘を受ける以前に、こうした普遍的な原理による自己自体の振る舞いを作られる感性に、健全な心身の所在が確認される。欲望過多で他利への志向が弱いものであれば、それに相応しい領域や立ち位置が生まれ、過不足への認識を取らずに居座るかの判断は、歴史的、文化史的に汚点であり、根源的な原理に照らした二次三次の原理の創造と適用という事が少なからずに意識に備わり共生感情を備えた主体性が生まれる。
原理探求型の社会とは、誰が考えても納得性に及ぶ筋道を重んじる価値の形成に在り、物的要素を排して純粋に現れる確信性の高い論理を描き、それを追求する姿勢や行為に比重を持つ事であり、この感覚を強く持ち実現への強いエネルギーを投じる所に理想と実現と方法の構図が浮かび上がり人間の価値が上昇する。
この中に、永年の時をかけ創り上げられた絶対的行為類型が作られ、これを超えて人さまの為等という感覚に至る事は歪んだ美性を表し特異な道筋から生まれる歪みと映し出される。この行き過ぎた行為に偽善という言葉が当てられ、感受性の可笑しな状態と知覚され、不快性の高い事象に現れる。主客の分断性が顕著であり、日本という空間における永年の美性と乖離した不調和感が作られる。理由の付かない本能的な反応であって、個々の事象の積み重ねから見る規則性の高い不動の原理という認識に及びます。これが下に成り、それへの名称に平等思想等という言葉が付く。極めて人間の真理に近い実際性を表す美的感覚が永年の空間秩序と形成されてきたかに見受けられます。
物的欲望への過剰性から、それに資する人口的な制度が作られ、この調和性への価値が希薄化され、私的欲望過多の体質へと進行した。価値観が崩れ物理性へ押し流される姿と映り真理と逸れた感覚が生まれます。制度の力がやけに大きく、その用い方が極めて限定的な利益を志向され、大きな価値を阻害するかの事象に映る事も少なくなく、この傾向や趨勢にはどこか異様な感性の所在の実感に及び、本筋の軌道を壊した原理探求型の社会とは異質の世界に映ります。
この感性が、至る所の制度に反映され、或いは物的原理に従う皮膚感覚の増進となり、調和性への根源的な概念に立ち返り本筋への軌道へと修復するといった論理が現れる。
成長過程からの特異性と、物的原理への荷重や、観念に偏した体質形成が、マクロのシステムへと及んで、本来的価値概念と外れる規則性へと連なり、主体性のない、自律性の壊れた人間を多産される。力や調和の概念の取り違いに対する是正をせずに、ただ物的快楽への野放図な創造の末に及んだ実態という表現にも、因果の実感が作られる事かもしれません。犯罪への無頓着な感性がそれの証にも思われます。
真理という感覚と離れた全体観の進行と纏められ、調和や力の概念の相違が、これらの事象認識の異同を作り、取り返しのつかない衝突を招いている。根源概念への思索を深め、当該空間に元々あった良質な感受性を内部から創り上げ、外部へと提起する筋道が、原理探求型の社会に相応しい道筋にも思えます。外部の力を借りて内部を換えるといった手法には、安直性や物的利便性に慣れた物理原理に荷重を持つ短絡性の人間にも映り、局所と中局と大局の同時並列的な進行がイメージされて方法の適正となり、力への依存ではなく力の適正利用という実感が生まれる。
大志を抱く事と実際のミクロ感覚の整合が弱いものであると、犯罪への不快感が強く生まれず誤魔化しの論理へと逃げられる。体質形成過程の相違が感度や論理の違いに及び、力の依存と力の利用との相違に至り、中身の取り方も違いが生まれる。