現況の人間像

真摯な姿勢から過失を認め、それに対してここぞとばかり攻撃する姿勢には、程度によって不快感が現れ、全滅させるような欲望に及ぶ事には異常な感情の心象を受けるというのが傍から見る感じ方に成り、多くの事は、良い面と悪い面との併存した状態で掴む事が共生共存本能を持つ人々の感覚に思われます。

逆に、過失を認めないで惚けたまま、逃げ切れるという発想からは修復する事はなく、他人を誤魔化すばかりか自分も誤魔化し、動揺を抱えたままそのつけがどこかに現れる。或いは、誤魔化しを重ねそれが体質に成り下限的な善悪にも鈍感になり、大きなしっぺ返しを受けるのが歴史からの教訓であり、この自然作用を滞らせずに回る事が正常であって、過剰な美感や体裁に極度に拘る感性が失敗を認められずに蓋をする。

プラス性の評価構造を持たない減点主義を基軸にする文化に起こりがちな反応に見受けられ、ここから後ろ向きの発想が強まり、上げ足とりやダメ出し、詐欺や盗みといった二重人格が強まり、言論と腹の中が異なり陰湿な人間性が濃厚化する。

この体質を中軸に添えると、それが伝播し、物的力への過剰依存と現れ、単純物理性の秩序が支配的に成り、良質な前に在る発想や挑戦意欲が萎んで、閉鎖性の空間が生まれる。物事の重要性の取り方が歪み、端っこの事へ妙な拘りを生む等の、基軸の細い価値体系が創り上げられ、均質性への快適と許容性の狭い感覚が進行する。

対人的な窮屈さを強め、健康な発想が遠のき、外界に映るあらゆるものと距離を設け、対立的な構造が拡大する。利己的偏狭性の過剰な姿が、所々の細かな仕草や発言から察するに及び、性質の明瞭な異同が掴みだされる。こうした閉鎖性が経済産業の委縮や政治行政の形骸化に及び、過失を謙虚に認められない空のメンツに拘った異常な感性と及び、陰湿性が強まり空間を暗くさせる。

これらに改心して、過失を認められた事には少なからず前進性の印象が作られ、責めるばかりではなく健康な一歩として捉え、その良質性を伸ばす向きのエネルギーを投じる事が相互の発展軌道を太める。失敗や過失に対して率直な謝罪を見せる事については、前向きの部分を残した調和の形成が適当な姿に成り、お互い様の感覚を備えた共存性が持続的な好循環への軌道を作る。

いつまでも過失を認められない人間には良質なエネルギーは集まらず、時が進む毎に、その事柄への意識が深まり、心身共に病的な状態が進行して、二次三次の悪性を作られる。

この負のスパイラルに陥らない清々しい潔さが、健康な文化のインフラとなり、過剰な美感に行き過ぎない善悪や正負という性質を持つ人間を直視する文化に健全な持続的発想が生まれる。

この論理を導出する根源焦点が自然の存在に成り、自然の生命を奪い人間の生命を存続する事へ対して少なからず罪悪感を抱ける感性が要り、現代の人工化されて物事が届く流通形態から野性的生身の感覚が弱まり、生き物を殺している事への実感が離れて、妙な美感が作られる事への警鐘が鳴らされる。人間を過剰に美化した姿は醜悪そのものに成り、不健全な感性が進んで、失敗や過失への真摯な態度を避け、逃げ回る弱さが大きな惨事を招かれる。文化という根源からのフラットな感性が強調されて正常な感覚へと定期的に修復されて、大きな道を外さない歩みが持続する事に思われます。