人間学の導入-実質と根源の喚起

 

人を殺す事を肯定はできませんが、殺されてもしょうがないと思うような人は、いないわけではないと思う人も少なからず要るのかもしれません。現代の感覚的な体験の弱い頭脳過多で小手先の発想に偏した体質は、健康な精神から離れて人との良好な感性の循環と間逆の支配願望を高め、提供せずに奪う志向性の強い思考や行為に及び、陰湿な悪性の根元となって負の連鎖性を広げる事象も散見されます。

この振る舞いには実質上の人間観念が含まれず、法で規定された権利を与えるのも違和感が生まれるのが、健康な感性を備えた人々に在っての感覚に成り、実態の人間性を含まない生物と見えても不思議はないでしょう。法で規定される権利にはこの実質的な人間としての状態が計られて、権利の行を持つのが適正な論法に思われます。

感覚的な体質が弱まり頭脳に偏った人との関係に陥り、健康な感性が備わらず、物理的力をリアルに察知できず、浅はかな振る舞いで精神と身体との分離した状態に見受けられる人々が少なからず生まれて、そこに影響力の強い判断等を任せると、とんでもない社会が創り出される。教育や秩序形成の失敗の産物であり、親の教育か学校での良質な先生に恵まれなかったか、入った会社の躾が間違ったか、何がしかの原因で異質性の高い感覚が築き上げられ負の存在と知覚される。

法で規定する権利は、これらの想定を持ち形成されたものか、根底からの設計と運用を考える事から人間形成過程が設計され質実の取れた頭脳と感覚と感情を持つ人間が創り出される。この標準と外れて重要な要路に備わり力との適正な関係を作り出せず、暴走を働く事への対処策や人格要件の吟味と着任、任命者の責任といった点を根源から熟慮して実施する事に社会のニーズが予測され訴求する意義を感じます。

当たり前に在るという感覚に成る事が観念設計上生まれ、作る過程や検証が弱く社会経験の異質な過程や特殊な職業に就き一般感覚と離れた常識におり、まともな人間と扱われていない事へも気づかない特殊性からは良好なエネルギーが増産される事はなく、これらの予防の観点にも文化論の焦点は有効な論理を提供するものと思います。

標準的な感性は一定のクオリティーを持つ産業経済における取引の中に在り、その型枠の一つとしてISOマネジメントシステムの規格が世界中で事実上の多くの企業に採用されている。ここには、取引における基本となる観念と実態が随所に見られ、中でも旧来的な企業に見られる実際に用いらず作っただけの管理規定等の概念は外され、すべて質実の検証を伴うサイクルが基礎感覚に成る。過大な評価も過小な評価も不適合になり、そしてこの運用から強い倫理道徳が形成され自律の取れた常識感覚が内蔵される。外圧や脅しで従属する子供の感性と自己で律する感性との相違は大きく、この面に人権が与えられる基礎条件があり意思を持つ主体という実感が生まれます。

力を持つほどに、この自律力の面が制御へのカギを握り、それまでの過程にいくつもの体験を重ねられて、適正な判断を生みだせる感覚や知見が作られ、この工程を省いて担ぎあげるような運用から大きな被害が出現する。この面への検証感度を高めて、健康な社会ビジョンと現況が掴みだされ、乖離との是正を計る事が基盤の良質性と描かれます。オーソドックスな型式の社会経験を踏まずに作家やマスコミ等といった異質な世界から知名度が作られて重要な配置に就くような愚策には慎重な判断を持ち、社会を作り上げる事が不可欠なのでしょう。公務員にあっても上述のような人格要件に比重を置いたシステム設計から良質性の向上に連なるものと想像されます。

質実に在った配置を根源的な観点から設計し自然な循環を留めないのが健康な感性の増進に繋がり頭に偏った感性の異常には赤信号が灯される。人権概念がその顕著な一例に成り、当たり前に在るという感覚が可笑しな心身の分離に及ぶと感じます。人間を作り上げる意識の涵養と実現に、本書の文化論が基礎教養として備わり、或いは産業経済活動の重要な基盤秩序として需給相互からの質の確保へ、或いは、政治行政の基礎的重要な資格要件として各所に導入する事も有用に思います。こうした『人間学』の導入と強化が21世紀の健康な社会形成の基盤を強めるものと思います。