一部の人間の個人的な行為で、その個人が所属される集団全体へ心象が形成される。
多くの健康な心身を有される人々に対して、異質性を持つ欲望から犯罪に着手され、集団としての性格か、ごく限定的な個人の異質性かという焦点が生まれる。どこまでを集団と構えるか、個人の特性とみるか、その連なりの実感をどうみるか、この冷静な分析が現代人の合理性を表す一つの側面に思われます。絶対性の基準には多くの人の感性が反映されて創り上げられる。それを超えるのは、あまりにも異質な特殊性と映し出すのが適当であり、その認識を強めて相応しい反応を見せる事に成る。これを曖昧にして、看過する事は、多くの人々の意思を踏みにじる行為に成り、それがやがてエスカレートして、ますます異質な常識が慢性化する恐れを生む。
大きな国際社会の問題から身近な犯罪まで、行為の本質的な原因にはそう大きな違いはなく、下限の絶対則は普遍の原理に成り各種の場面に適用される。それを表したのが本書の文化論になり、ミクロの人間の性質が、マクロでの判断にも忍び込み、根本原理から快不快の事象が生まれる。大きな影響力を持つポジションに在る程に、ミクロの性質に厳しい要件を当て嵌め、力に対する責任感覚が備わって、適正な行為を生むとするのが、誰が考えても同様の適切性の基本論理かと思います。
この原理を粛々と適用させる意識の涵養が、下限のインフラとして当たり前に備わる水準の維持と上昇が欠かせない。教育の初歩となり、社会秩序の基礎になり、この事実を隠す事無く公開し多くの人の判断を形成し事象の正確な認識をとりそれに相応しい対応が生まれる。
これを歪める事には、大きな精神的な病理と特定され、相応しい配置に移すのがまずもって対処策に成り、そうした人格を生みだした社会的秩序の内実にもメスが入れられ、事象の連鎖性を探り集団的な反応や感覚で在るのかを精査させ報じる義務が生まれる。下限の規範には敏感な反応を見せるのが、健康な人格を持つ人々の適正な姿に成り、ここには一切の妥協は見せずに、行為への対処と予防を徹底させる感性が必要に思います。原論で色々と表現するレベルの事と盗みや傷害という行為に及ぶ事は、明らかに別物であり人格上の異質性と特定される。
海外の事ばかりでなく、国内上のこうした性質を野放しにせず、オープンな判断を見せるのが内外への良質な表現であり、外にばかり求める偏りを生まず、中の掃除も適切に実施する事が、外へ対する力強い正当性を生む。中の不祥事を伏せる事無く、堂々と改善の姿を見せ、外へも同質の原理で反応を一貫させ、内外の一致した反応を作られる事が、実際的な独立的意思を持った主体の認識に及びます。負への過剰な隠ぺいは、陰湿な社会空間への進行に及び、お飾りの正で装う悪性を深められる。
この二重性の増進から様々な態度や行為に生まれ、心身の分離や心神の喪失、偽善の悪性を蔓延らせる。下限の不快行為においては、原論と行為との明確な境が在る事の認識が弱くなり、それを制御できないものが良質な創造を生みだす事は無い。この徹底した感覚は当たり前の感性と思います。この面については普遍原理から同質の適用を持ち内外という境も次第に、なくなるのが健康の増進と思います。一貫した主体性に信頼性が付与される。けじめの取れない馬鹿に人権等というたいそうな権利は実質的に在るとは思えません。必ず命を取るのが自然律に思います。裁判所の見解を伺いたいものです。