伝統文化の本能

盗み等の犯罪に批判の声が上がるのが普通の感覚であり、盗まれる方が悪いのだというような感性には、どこか馬鹿げた理性の喪失と映し出されます。物理依存症がここまで進んだかという実感が湧きまともな人間がいなくなる事には深い警鐘と共に対処や予防の施策が自然に作りだされる。このような状態に及んだ原因分析と合わせて有効な施策を導出するのが文化慣習に携わりました人々の変わらない感性であり、短期的な利潤を超えた経済性を度外視した自然感性として特に他領域よりも強い反応が生まれるかに思います。本書における社会システム上の狭義の文化領域と、その中でも伝統的に継承されてきた分野の中枢神経からは、心身を別のモノとして扱う事のない一体的な強い言行が表現される。折からの経済環境の変化によって、この面が壊れかける中にあっても外す事の出来ない原理として体内に深く浸透される人々も少なくないものに思われます。この人間の根源基盤に長期の価値が備わり自然本能的に歪みを是正する反応が生じ理由が浮かばない行為が生まれ、ここに心身の一体的な健康の所在が確認されます。単純反応には及ばず、このエネルギーから各種の思索が深まり有効な創造を模索される意識が途絶えず持続する。伝統文化の実態はこの本能にあり生産事物や行為に現れ、知覚として映し出される。科学技術の力への依存が高まる度に人間側の内心力が弱まり、瞬間的な利便性を求める感覚反応が強まるかの因果で浮かび生じるエネルギーの質に反映される。良質な伝統文化が良質な生産事物へ繋がり良質を感じられる需要側も作る事に成り、この構図を持った活動から不変と変化の良質な峻別が取られ人間性と呼ばれる性質が持続する。この狭義の文化における意義を訴求し続ける活動は少なからず必要に思われます。

 

評価構造(なにをどのように)

評価構造(なにをどのように)
前進的創造面からみると、「なにを、どのように」が行為の焦点であり、個別と共通の志向が生まれる。つまり、「何を」についての共通価値があってそれに有効などのようにという手法への価値と何を自体への賛否という価値が生まれる。この構造を尊重して各自の意思の自由を根に備えるのがフラットな平等感覚に思います。マイナス的削減面には、「なにを」についての限定性が高く、共通性が割と明確になりそれを予防する為の手法というアプローチが生まれる。これらプラスとマイナスの相互因果関係の取り方も、比較的共通的な論理という実感が生まれるかもしれません。
以上の事から誤解を恐れず言うならば、多様性とは前進性に見る「なにを」についての志向で在り、これの共通面と個別面という区分を強調して価値の尊重が高まり、その上で、○○という志向が確認されそれに資する手法に優秀という概念が生まれる。「なにを」の評価は一律になく共通と個別性の上に共通価値と個別領域とを区分する事で一極的な価値の押しつけが予防される。
このようなスタンスが経済性の強い立場と異なる生活者のスタンスから形成され、需給相互の観点を作りだす発想に立脚した人間像と描き出されます。供給ばかりになく、需要を作る発想、何を欲しいか、についての多様な観点を導出する視点を備えた生活スタイル全般を描き出す事に成り、ここから個別と共通の具体的な現れに連なる。その生活スタイルと、実現するに有効な手法に優秀という評価が加えられる。即ち、思いからビジョンが形成されて評価基準らしきものが浮かび社会ビジョン等の構想やイメージと手法という区分をある程度設けた思考に立つのが、理性的な構造と思われます。この想定に立つと、ビジョン形成力自体への評価が優秀性の根源となり、人々を魅了する真に有効の実感が生まれるビジョンを創出できるかが優秀性を計る上流に備わる。「なにを」を作り出せる発想という面を強調して、それへの手法という次元の多段的構成の観念を持ちどの面についての優秀かを特定する論理構造を備える事が合理的な認識に思います。
論理整理上は以上のような区分が生まれ、実際上の感覚からどういう構図が描かれるか、その検証の持続的循環で、次第になにをについての不動性を欲する部分が固まりそれを基盤とした二次三次の何をという連鎖が作られる。この固定概念に新たな発想や欲望、気づき等を発生させられる創造に付加価値が生まれ、創造的優秀性という観念が当てられる。
幸福感の発見や創造、不快感の減少への創造と、両面の関係性を見据えた真価の実感として評価を持つのが、本書の健康概念からの導出になります。単純な利己的発想からの行為を除けば、創造事物を長い目で見ると容易に評価できる事は比較的少ない場合が多く、時をかけた吟味で真価が浮かび上がるのが実態と思います。
表層上の趨勢や流行か、長期性の価値に思える事か、根源的な焦点からの原理を形成する所に納得性の高まる「なにをどのように」が生まれるように思われます。