人権を規定する上で、人間観念の具体性を揃えた権利の抽出という論理構成が相応しい。人権は一人の人間という解釈は実際的でなく複数人での間柄を想定して生まれる関係の適正化を図る観念と捉えるのが適当に思います。間柄を分ける境目が思想と行為になり、思想という内面性の所に在っては関係性の実感は未だ取られず、行為という性格を含んで関係における適正への焦点が生まれる。つまり、何がしかの要望と受容の関係が見られる所での、健康な立ち居振る舞いを求める内容と限定される。思想信条の自由等という事は、あえて謳われる必要も本来的にはなく、人との関わりに於いての適正を明文化して意識を揃える事で良質な共通的公平性を意図するものと考えられます。文字にあらわし意識に強めたいという効果を意図して、あえて文章に起こして共通意識の強化を望む行為と位置づけられる。その初期におかれる事が自衛権となり生命の危機に対する防御という当たり前の自然権であり、これも敢えて謳われるまでもなく万人に備えられる事となる。
問題は生命への危機に対する感じ方という実感の程度で在りこの解釈や感覚に個別性が生まれる。5w1hで各種の直接事象が特定されこの内容で生命への危機を与えると感じるか、或いは間接的に事象を拡大してそれらも含んで危機を感じて防衛の措置を認めるか、こうした因果の取り方の多様性が生じる。思想と行為を分ける基軸にもこのような同質的な論理が適用され、実感をどうとるかの個別性に対して概ねの共通性を設けた標準を限定化させる試みが図られる。完全な事象の特定という事はまずあり得ない事を前提にして出来うる限りの一致を想定して不快性の予防に繋げる人々の営みと置かれる事が必然に思われます。集団的と個別的の区分も、危機に対する実感の取り方の相違から生まれ、間接性の因果をどこまで想定するかの問題になり、その想定を限定するのに重要判断のポイントがいくつか示される。
「~~の場合」といった限定で、自衛を取るべきと判断する実感点の規定をあらかじめ定めておく事は、その時の判断の容易性を齎せる事や、主体的人格を明瞭に示す行為として他者との関わりに際して予めの約束を積極的に申し出て自己の性格を表す作用を持ち、関係の維持や開発、良好性への作用となる。或いは主体性を明らかにする義務感という捉え方も生まれる。
しかしながら、限りのない議論に偏り実際の事象が留まる等の側面に意識が欠けると議論ばかりの行為に陥り、力の投入の適正感を持った議論と行為に在って実際の生活感の適正が生まれる。枝葉の議論で停滞するようなものでは不毛性が高まり、壺に成る所を程々に抑えて行為を重ねるのが健康な感覚に思われます。このような頭脳と感覚と感情の良好な循環に健康な人間像が現れ、文化の焦点はこの適正を探求し実践する活動と規定されます。
概念の細分化への意識が働き新設概念を多産する事について、その目的と効果の感覚が弱く供給論理に偏して、基礎的基軸の重要な概念の感覚化が疎かになり、頭でっかちの歪な体質による精神的歪みに見受けられるような事象も散見されます。法律概念の創造は供給論理の強まりのようにも感じられます。一定の需給構造と検証の仕組みが適正に回らず細分化した概念の専門性ばかりを強める向きには疑問符がつき、根元や基軸が細まり枝葉が増加して妙な虫が住み着く傾向に問題が浮かびます。覚え込みを無批判的に受け入れる事無く、理念とビジョンや方法との構造を持ち不用なものまで詰め込む必要はない事を考えながら感覚からの創造とのバランスをもち健康な有機体を築く事に意識を注ぐのが良好な心身の現れに思われます。