文化思想と活動

所属される集団の性格と個々人の性格には、一定の共通項が備わり、集団の体質が個人の体質に備わる。集団を広げて業界や、あるいは社会システムという見方における経済産業、政治行政という中にあっても一定の共通した性格が備わることでしょう。

おそらく丁寧な集計や分析を立てると、その性格から行為や思考のパターンが見てとれ、または、後者から前者が作られ、体質が固まる。

文化論では、健康な人間像というモデルを作り上げることに意識がそそがれ、個人や集団という要素はかけずに、素の性質に近い所での健康体を描写するものであり、自然や人への対峙の仕方、関係性の作り方、善や美の感覚という面での下限的な所を浮かび上がらせたものです。

この人間像から、かなり離れた感覚とは、積極的に関わることは基本的になく、一定の所与的感性の同質性として、最低限の快適性を保つモラルの水準が整って、それ以上の関わりを求めるのが、進行の過程になる。以上のようなスタンスが個人の立場からの見方や接し方と置かれる。

文化思想というより積極性をもった生産的文化活動の立場にあっては、このような思想を各所に進行させるという意図が強まり、発言や方法という踏み込んだ姿勢による行為が生まれる。それを積極的に望まれる人々のいかんを問わずに、文化の構築という向きでの流れが生まれ、最低限のモラルの形成を強めるエネルギーと現れます。

しかし、基本理念となる相互対話性ははずすことなく、直接的対立を真摯な態度として堅持する人々とは、関係が断絶されることはなくそこでの感情をぶつけられるものとなる。姑息な体質が染みついた直接性を嫌う人々には、まともな建設的感情が生まれず、時間の無駄であり、つまり、ここの体質面の異質性には、つながりに及ばない。

文化の根源に当たるスタンスを持たない性質は、発展性のない体質や過剰な利己性、一方向の異質性は、経済的拝金感覚が根強く、それも偏狭で固定的、閉鎖体質は、未来型の大きな欲望を作り上げる協働性に及ばない。動物型の単純変数で、その物理性を対人的良好性とかけ離れた支配的欲望過多の用い方で扱われる。

社会健全性の劣る体質には、力の保有を制限した秩序形成が悪性の拡大の予防策となり、人格と技術の均等的尺度を目安とした制度形成から基盤の健全性が作り出される。

今日、日本文化の根本性と異質に感じられる部分は、こうした物理性の用い方に見る変質さであり、この部分については、しっかりと少なくとも改善を望まれる潜在的顕在的な人々の欲望に推察が及び、これへの積極的改革の方策が社会ニーズと思われます。

過去の良好な歴史から形成された部分は、いかなる時代にも基盤に備わり、人々の不変的意思として固め、それに倣った規則性の2次3次的事象の創造を一定の制約下での活動と置かれるように、働きかける本能的感性がうまれるものと思います。

根本則と個別事象の適用、阻害性と伸張性という動態に配して、施策を投じる事へと建設的なエネルギー当てて、未来へも好き部分を繋げる義務が生まれる。活動といった場合の一歩踏み込んだ姿勢に、心の謙虚さが適用され、見て見ぬ振りなどという事では、ただの恥知らずになり、謙虚な態度とは大凡異なる利己主義者と感じられます。

その為の発言や施策を辞める事無く実施するのが、謙虚な姿勢と態度であり、根本的価値を守り増やす事と規定される。この意味での公性を体質に含むのが自然であり、過度の自己生産的利益ばかりに傾く体質には少々不快を覚えます。

一部の変質的感覚を野放しにせず、大きな価値基盤を一人一人に守るや伸ばすという意識が備わって、これらの事が実現する事でしょう。そして、未来へもその価値が引き継がれる。おかしな精神的異質性と行為に対して、良好な動機の弱い力の乱用をさせない個々の小さな施策の集まりから、強固な基盤が維持される。根本価値を守る事へと活動に表すのが、自然や人への謙虚な態度と思います。

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